こんにちは、和歌山大学経済学部3回生の和田です。
暖かい日が続くようになり、冬の終わりが見えてきました。
春風も勢いが強い気がします。
最近、和歌山城を歩いていたらMAPやチラシが置いてある机が
風でひっくり返っていました。
威勢のいい春がもうすぐやってきます。
何かと忙しいこの時期、和歌山大学では前期入学試験がありました。
これからは後期入学試験があります。
受験勉強を終わった人も、まだまだこれからだ!という人も、4月からは新しい生活が始まります。
新しく吹く風に負けないようしっかり準備していきましょう!!!
さて、今回のブログのテーマは「ワダイの歴史」。
寮長をやっていた僕は、一番身近な和歌山大学男子寮の歴史についてご紹介したいと思います。
寮についてはすでに牧野さんのブログで「寮歌」をテーマに述べられています。(♪花の霞に 【ワダイの歴史①】)
上記のブログにも書いてありますが、寮歌は学生自身が作って寮の風土を表したものでした。
それでは学生が自主的に寮歌を作った頃の寮には、どんな人がいて、どんな生活をしていたのでしょうか?
そんな疑問から色々と調べ過去の時代の「風」を僕なりに感じたので、
ここではその「風」の原点をすこしでも皆さんにお届けできればと思います。
和歌山大学男子寮の一番の特徴は「自治寮」であるということです。
では、この和歌山大学男子寮の「自治」はいつから始まったのか。
それは和歌山大学が「大学」になる前、和歌山高等商業学校が開校した大正11年(1922年)の次の年、大正12年(1923年)に始まった「励行寮」が起源です。
(和歌山大学沿革についてはこちら→和歌山大学沿革.pdf)
「励行寮」は食事から掃除まで全て自分たちで運営していた自治寮でした。
なんと、朝日の上がる前の5:30から起きて「自彊術」と呼ばれる健康法を実施し、自分たちの食堂でご飯を作り、学校から帰ってきたら勉強をした後、夜11:00には消灯をしていたそうです。
「自治」とは、自分で自分のことを処理すること。社会生活を自主的に営むことをいいます。
「励行寮」の人々は、寮という特殊な社会の中で自発的に自己研鑽に励んでいました。また、寮祭の時には商店街へ仮装をして練り歩き地域との繋がりを保っていました。
そのような意味で、和歌山大学の寮は本当の意味で自治寮としてスタートしてきました。
当時の様子。
この寮を設立したのは、高等商業学校の初代校長の岡本校長(任1924~1936)であり、寮生活を学校教育として大変重視していました。
今の寮の意義は「共同生活による人間形成」にありますが、この当時からその大きな意味での役割は変わっていません。
つまり仲間と共に1つ屋根の下で過ごす楽しさや苦労から、知識を増やす「学び」だけではなく、学校で得た知識を「正しく」実行出来る人を心・技・体全ての面から育てるための施設が「寮」でした。
ここでも驚くのは、この体制を当時の学生が自主的に作り上げたことです。
しかし、最初から学生による自主的な寮運営が行われていたのではなく、「励行寮」は設立当時から教授の方々の指導のもとに規律が守られていました。
特に寮教育に貢献されたのは、大分出身の励行寮監督指導の野村越三(?~1925)教授です。
この方は、当時学生からも学校側からもかなり尊敬され、設立当初の「励行寮」の基盤を作り上げた一人です。
野村先生は残念ながら、励行寮の監督指導2年目でお亡くなりになられます。当時の様子が分かる「励行寮20年史」を見てみると、全330ページ中238ページに様々な方が野村先生の事について書かれており、如何に大きな貢献をしたのかが見て取れます。
多くの方が「天成の人格者」といわれた野村先生は、学生と一緒に寮に住んで指導を行い寮生活の「共同生活による人格形成」を体現していました。そのような偉人への尊敬を原動力にして学生は「励行寮」を作っていきました。
その後、世界大戦を経験し、高等商業学校が「大学」に変わり、学生の数が増え、キャンパスも移転しましたが「自治」は継承され、今では全国でも珍しい「自治寮」となっています。
なぜ、自治という形が残されたのでしょうか?
様々な理由が考えられますが、和歌山大学男子寮の基盤が「人間形成」という当初から変わらない理念をもっていたからだと僕は考えています。
当時の資料を見て思うのは、「寮」という特殊な空間での生活が醸し出す一体感や、そこで得られる仲間との貴重な時間の大切さは変わらないということです。
先人たちの努力が生み出した「風」が今も吹き続けているのだと思います。