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夏目漱石、途中下車 ――「教養」の来た道(103) 天野雅郎

今回は、本当は「熊野学事始」の続きを書いて、僕は君に、折口信夫(おりくち・しのぶ)の話をアレヤコレヤと、聴いて貰(もら)う積(つもり→当て字:心算)でいたのであるけれども、ふと気が付くと、このブログ(blog←weblog=網状談話)が君の手許に届くのは、おそらく12月9日(火曜日)のことになるであろうから、それは振り返ると、今から98年前に、漱石(そうせき)こと夏目金之助(なつめ・きんのすけ)が亡くなった日(いわゆる、忌日命日)に当たっている。――と言う訳で、今の僕の目の前には、これまた厳密に言えば、彼(夏目漱石)が103年前に登ったことのある、和歌山の和歌浦の、奠供(てんぐ)山が見えている以上、この風景(landscape=土地形状)に目を瞑(つぶ→つむ)り、これを見ない振りをして、この場所の話に時を傾けないのは至難の業である。

なにしろ、この場所が態々(わざわざ→業・技)奠供山を目(ま→め)の当たりにすることの出来る場所であったので、この十年来、この場所に僕は住み、暮(くら)し、文字どおりに、この場所で日の暮(くれ=暗)れるのを、経験している。その意味において、夏目漱石は僕が、和歌山に移り住んで以来、絶えず僕の「先生」であったし、現在も「先生」であり続けている次第。実際、僕が和歌山大学で最初に担当した講義(......さて、何と言う授業科目であったかな?)にも、確か僕は彼の「現代日本の開化」をテキストにしたことを覚えている。そして、その折の僕の話を聴き、例えば、当時の女子学生の一人が岩波文庫の『漱石文明論集』(1986年)を読み、そこから改めて、もう一度『漱石全集』で「現代日本の開化」を読み直したい(!)と、レポートに書いてくれていたことも。

ついでに、どうして彼女が『漱石全集』で「現代日本の開化」を読み直したい、と言ったのかは、よく君には事情が分からないであろうから、あえて僕が説明を加えておくと、その時、彼女は岩波文庫の「現代日本の開化」が新漢字(例えば、戀人→恋人)と、新仮名遣い(例えば、こひびと→こいびと)で書かれていることに、残念な思いがしてならなかったのである。――と書いても、そのこと自体を、ひょっとすると君は何のことやら、訳が分からない側であろうか、それとも、このような四半世紀前の女子学生の思いを、君は酌(く=汲)み取れる側であろうか。それならば、かなり僕は嬉しい......と言おうか、実は、涙が「ちょちょ切れる」(T_T)ほどに、とても嬉しいのであるが、このような歓喜や感激や感動を、昨今の大学では僕自身が、経験することが乏しくなってしまっている。

なお、この「現代日本の開化」は夏目漱石が、その生涯に一度だけ、和歌山市を訪れた際の講演であり、正確に言うと、この講演は明治44年(1911年)8月15日の午後、現在の和歌山市一番丁にある、中央郵便局の辺りに建てられていた、当時の県議会議事堂で催されたものである。この建物自体は、やがて現在の和歌山駅の、すぐ手前(美園町)に移築された後、今は岩出市の根来(ねごろ)寺に、その名(一条山根来寺)に因(ちな)んで「一条閣」と名づけられ、宿泊施設に使われた後、保存され続けている。君も気が向いたら――と言うよりも、ぜひとも気を向けて、足を運んで欲しい限りであるが、漱石自身が和歌山に足を運んだのは、この講演の行なわれる前日の午後であり、その夜、彼は僕の家の近くにあった、和歌浦の「望海樓」(ぼうかいろう)という旅館に宿泊している。

と言う訳で、なぜ夏目漱石が今、僕の眼前に見えている、奠供山に登ることになったのかは、君も了解済みであろう。ちなみに、この日の彼のスケジュールを、漱石自身の日記(『漱石全集』第13巻)から辿り直しておくと、まず彼は前日(8月13日)に講演(「道楽と職業」)を兵庫県の明石市で済ませた後、夜は大阪市内の旅館(紫雲樓)で一泊してから、この日の朝に汽車(南海鉄道→南海電鉄)に乗り、当時の和歌山駅、現在の和歌山市駅に到着、その足で、ただちに和歌山水力電気株式会社の運行する電車(路面電車!)に乗り換え、現在の本町四丁目から三丁目と二丁目を過ぎ、先刻の県議会議事堂の所で右折した後、左手に和歌山城を仰ぎ見て、市役所前を左折してから、今度は県庁前を通り過ぎ、かつては和歌山大学の教育学部が置かれていた、真砂町へと辿り着くことになる。

と言う風に、このような調子を繰り返していると、何だか僕は連日、自分自身が通勤の際の行き帰りに利用している、和歌山バスのガイド役でも引き受けたかのような気分になってきて、それはそれで、それほど悪い気分でも(......^^;)ないので、続けてみると、さらに漱石は現在の、和歌山大学の附属小中学校のある真砂町から、日本赤十字社の医療センター前を通り過ぎ、かつて江戸時代には、ここで和歌山城の外堀が、その名の通りの堀止(ほりどめ)となった地点を跨(また)いだ後、そのまま電車は高松、水軒口、秋葉山を辿り、ようやく和歌浦へと到着することになる。とは言っても、この段階では和歌浦の、やっと「和歌浦口」に過ぎず、ここから道は二手に分かれて、一方は東照宮から天満宮へと向かい、一方は和歌浦を通過して、旭橋を渡って、紀三井寺へと向かうことになる。

当然、漱石自身は和歌浦の停留所で電車を降りて、そこから歩いて、宿泊先の旅館を目指したに違いない。日記によると、大阪を出発したのが午前9時52分、それから汽車は現在の急行の倍近い、1時間50分を費やして、和歌山に到着――この時点で、ほぼ時計は正午を指していたはずである。そして、そこから電車に乗り換え、おそらく漱石一行が和歌浦に到着したのは、午後1時頃のことではなかったのか知らん、と僕は思うけれども、さて当日は、何のトラブル(trouble)も起きない、トラヴェル(travel)であったのであろうか。ただし、いつも旅行には些細な、それ相応の災難は付き纏(まと)い勝ちであり、そうであるからこそ、やはり旅行は旅行であり、単なる観光(ツアー)とは違っているのであって、この折の漱石一行にも、その災難は結果的に、待ち受けていたようである。

その災難については、以下に漱石自身の日記を掲げることで、この場でアレヤコレヤと詮索をするのは、控えるけれども、このような偶発事(happening)が起きることで、いつも旅行には事前の思惑とは異なる点が生じ、その点にこそ、翻(ひるがえ)ると人間の幸福(happiness)の可能性は開け、通じていることを、君や僕は忘れるべきではない。なにしろ、この際の旅館の変更(あしべや→望海樓)が機縁(奇縁?)となって、夏目漱石は一晩、今の僕の家(すなわち、寓居→temporary abode=一時的滞在所)の近くの、奠供山の下の旅館に泊まり、その三階の左端の部屋を借りることになったのであり、さらに言えば、そこから夕刻、奠供山に登り、はるか和歌浦の風景を見晴らしつつ、やがて90年余り後、そこに僕の家が建つことになる、この場所をも見通すことになったのであるから。

 

〔八月〕十四日〔月〕 快晴 九時五十二分の汽車で和歌山に行く事にする。和歌山から〔、〕すぐ電車で和歌の浦に着。あしべや〔芦辺屋〕の別荘には菊池〔大麓〕総長がゐるので、望海樓といふのにとまる。晩がた裏のエレベーターに上る。東洋第一海抜二百尺とある。岩山の〔、〕いたゞきに茶店あり〔、〕猿が二匹ゐる。キリといふ宿の仲居が一所にくる。裏へ下り玉津島明神の傍から電車に乗つて紀三井寺に参詣。牧〔巻次郎〕氏と余は石段に降参す、薄暮の景色を見る。晩に白い蚊帳〔かや〕を釣り明け放して寝る〔、〕夫〔それ〕でも寝苦しい。朝起

 

涼しさや 蚊帳の中より 和歌の浦

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