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住居の哲学(承前) ――「教養」の来た道(105) 天野雅郎

前回、僕は君に「住居の哲学」という一文を書き、これを送り届けておいたけれども、ふと気が付くと、この表題の中の「住居」という語を、君は音読してくれたのか知らん、それとも訓読してくれたのか知らん......という点が気になってしまい、ついつい続きを書かざるをえない羽目(はめ)に陥った次第。ちなみに、この「住居」という語を音読すれば、当然、君は「ジュウキョ」と読むのであろうが、それは厳密に言うと、前半の「ジュウ」が中国南方音(呉音)で、後半の「キョ」は中国北方音(漢音)であり、要するに、これを「ジュウキョ」と読むのは、慣用上、日本人が前者と後者を組み合わせて、いわゆるチャンポンにしてしまった結果であり、そもそも「住居」は呉音で読めば「ジュウコ」となるし、漢音で読めば「チュウキョ」となることも、君は覚えておいて、損はない。

ところで、ついでに訓読の方も付け加えておくと、この「住居」という語は一応、訓読すれば「すまい」と読めるけれども、これも実は、単なる当て字に過ぎない。理由は簡単で、もともと「すまい」は「すまう」という動詞の、連用形を名詞化したものであるが、この動詞は元来、旧仮名遣いでは「すまふ」と表記する訳であり、したがって、その名詞も「すまひ」と表記するのが、本来の仮名遣いである。――と言うことは、この語を「すまい」と表記するのは、あくまで昨今の、新仮名遣いのルールであって、そのルールの上に、さらに「住居」という漢字を上乗せすることも可能になってくる。もっとも、そもそも「居」という漢字も旧仮名遣いでは、これは「ゐ」(→ゐる)であって「い」(→いる)ではないから、これを「すまひ」の「ひ」に宛がうのは、また一つ、別の逸脱になる。

と言う風な、なんとも煩わしい、込み入った、ややこしい事情が、君や僕が普段、まったく苦労せずに使っている......かのような気がしている日本語には、隠されている次第。まあ、そのこと自体を、君が別段、気に留めたり、気に掛けたりしないのであれば、それはそれで、いっこうに構わないけれども、それならば、例えば君が誰かとカラオケに行って、とっておきの「十八番」(音読→ジュウハチバン、訓読→おはこ)を熱唱している時も、あるいは、カミーユ・サン=サーンスの『動物の謝肉祭』(Le carnaval des animaux)の中の、あの「白鳥」(Le cygne)にウットリと耳を傾けている時も、君は決して音程が悪いとか、ここで音が擦(ず)れたとか、誰かの悪口を言っても、いけないし、一端(いっぱし)の批評家を気取っても、いけないことになるのであるが、それでも君は、大丈夫?

言い換えると、このようにして言葉(ことば=詞・辞)や、堅苦しく言えば、言語(呉音→ゴンゴ、漢音→ゲンギョ、混交→ゲンゴ)には、音楽と同様、音声面が不可欠であって、もともと言葉とは、そのような音声が姿を変え、言ってみれば、音楽と双生児のようにして生まれたものでもあったから、一方の音楽が「音の強弱、長短、高低、音色、和音などを一定の方法によって取捨選択して組み合わせ、人の理性や感情に〔、〕うったえるもの」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)であったのと等しく、君や僕が言葉の音声面を蔑(ないがしろ)にしたり、等閑(なおざり)にしたりして済む訳では、さらさら無いのである。なお、この場に先刻、カミーユ・サン=サーンスの名が登場してきたのは、たまたま今日(12月16日)が彼の忌日命日であったからであり、それ以外に他意は無い。

――と言いながら、実はアレヤコレヤと、伏線を張り巡らしながら、僕は君に「住居の哲学」の、この続きの一文を認(したた)めている。その意味において、この『動物の謝肉祭』(英語→Carnival of the Animals)についても、その副題に宛がわれている「動物学的大幻想曲」(Grande fantaisie zoologique)と合わせて、いずれ僕は、君に話を聴いて貰(もら)う心算(つもり)である。が、僕が今回、さしあたり君に伝えておきたいのは、このようにして動物であれ、人間であれ、はたまた「ピアニスト」(Pianistes→第11曲)であれ「化石」(Fossiles→第12曲)であれ、すべての存在が一様に、この世界の「一定のところに〔、〕とどまり住むこと」(白川静『字訓』1987年、平凡社)を指し示すのが「すむ」であって、その事実を、君も僕も、忘れるべきではない、という点である。

そして、それが人間であれば、その際の「すむ」には「住」(→住む)の字を使い、それが鳥や獣であれば、その時の「すむ」には「棲」(→棲む)の字を用い、一応の区別は施されている......ものの、この双方の「すむ」を遡ると、その原義には「巣」(す)があって、この語を動詞化したものこそが、その名の通りの「棲む」なのであれば、ふたたび白川静が述べているように、むしろ人間の「住む」という行為は、鳥や獣の「棲む」という行為を模倣したものであり、その点において、むしろ後者は前者の「原形」であって、その見本であり、手本であり、要するに、そのモデル(model=尺度)であった、と見なすことも許されるであろう。少なくとも、日本語に話を限れば、鳥や獣の「棲む」という行為が、人間の「住む」という行為の、模範であり、規範であったことは、疑いがない。

事実、人間の「住む」という行為の、叶う場所には、そこに鳥や獣が「巣」を作り、人間に先立って「棲む」ことを、あらかじめ先取りしているのが通例であり、順序である。しかも、そのような場所は鳥や獣にとっても、あるいは魚にとっても、人間にとっても、そこに水が清(す)み、空気が澄(す)み、そのような清澄な条件が、そのまま「すむ」(清=澄)ことの背景であらねばならない。人間の場合には、これまた白川静の言い回しを借り受けると、そのような「気体や液体などが透明となる」場所を選び、そこに「柱となるもの、支えるもの、停止するもの」を指し示す「主」(音読→シュ)を立てて、これを文字どおりに「柱」とし、その周囲に「火主の象形」である「主」(訓読→あるじ)と、その「主」によって招かれ、歓待される「客」(まらひと→まろうど)とが、集い合う。

そのような集い合いの中から、徐々に人間の住居は姿を刻み出し、その形を少しずつ、明瞭なものにし、明確なものにしてきたのではないか知らん、と僕は思うけれども、さて君は、どのように考えるであろう。――論より証拠、君や僕が一番、いわゆる家(いえ←いへ)に住み、暮らし、そこで日々の生活を営む時に、その際の家を家とし、家という名に値するものにすることの出来る、もっとも分かりやすい事態と、その瞬間は、どのような光景に結び付いているであろうか? ......と問われれば、僕自身は躊躇(ためら)うことなく、それは同じ一つの灯の下で、幾人かの人間が顔を合わせ、語り合い、飲食を共にしている光景である、と答えるであろう。裏を返せば、そのような光景を抜きにして、家が家であり、住居が住居である、理由や根拠は存在していないし、存在するはずもない。

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