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ほほほほ......と笑う人(第一話)――「教養」の来た道(107) 天野雅郎

ほほほほ......と、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『草枕』(明治39年→1906年)の中で「那美さん」が笑う。いつも、このようにして4回、この笑い声を繰り返す。違っているのは、それを表記する作家(=夏目漱石)の筆が、平仮名(ほほほほ)から片仮名(ホホホホ)へと、物語の中途で切り替わる位(くらい=人+立)のことである。が、ひょっとすると漱石自身は、この切り替えを充分に意識して、その上で彼女の笑い声を、平仮名から片仮名へと、変化をさせているのかも知れない。なにしろ、その程度の芸当は、この作家にとっては至極、朝飯前のことであったろうし、そもそも作家という職業自体が、このような配慮を欠いていては成り立たないものであったろうことも、疑いがないから。とは言っても、この時点で夏目漱石は、いまだ職業作家以前の、作家であったけれども。

ちなみに、このようにして「那美さん」が、いつも「ほほほほ」とか「ホホホホ」とか声に出し、笑う時、その笑い声が決して、主人公である「余」(よ)の「はははは」や「ハハハハ」という笑い声ではなく、あるいは髪結床(かみゆいどこ→理髪店)の親方の口から出る、ある時は「えへへへへ」という笑い声や、ある時は「ウフフフフ」という笑い声でもなく、それが決まって「ほほほほ」や「ホホホホ」であることに、君は興味があるであろうか。――と、今年は年頭から、何とも新年らしい話題を僕は持ち出している。なぜなら、このような形で「笑う門には福来たる」と、子供の頃から馬鹿(バカ)正直に、僕は思い続けて、今に至るし、そのような正直ぶりを誠実に、あまりにも誠実に、自分と自分の周囲に向け、格闘した所に、夏目漱石という作家は誕生したに違いなかったから。

ところで、漱石こと夏目金之助が朝日新聞社に入社し、職業作家へと身を転じるのは、この『草枕』の書かれた翌年の、明治40年(1907年)のことであり、彼自身は数えの41歳、満年齢で言えば、ちょうど40歳の時のことである。とは言っても、このような年齢の数え方自体が、彼のように江戸時代の最末年(慶応3年)に生を享(う)け、やがて明治時代を迎え、そこで改暦(旧暦→新暦、和暦→洋暦)という出来事(大事件!)を経験した側にとっては、かなり不審な、いかがわしいものに感じられても、当然のことであったろうし、そのような当然(natural=自然)の事態を、むしろ当然の事態として受け止めることが出来ず、まるで年齢が必然の、どのような社会や文化においても共通のものであるかのように見なしている、昨今の私たちの方が、ずっと呑気(のんき→暖気)である。

ともかく、このようにして夏目漱石は、明治40年以降に職業作家となり、君や僕の知っている、あの『朝日新聞』紙上に「新聞小説」や、いわゆる「エッセイ」を執筆し、これらを立て続けに、まさしく倦(う)まず疲れず、連載することになるのであるが、このブログ(第103回:夏目漱石、途中下車)でも、すでに君に伝えておいた通り、彼が亡くなるのは大正5年(1916年)の師走(○→しはす、×→しわす)の12月9日であったから、実は彼が職業作家として過ごした期間は、ほんの10年に満たない訳である。そして、その短い、わずかな期間に、彼は『虞美人草』から『明暗』の中絶に至るまで、例えば『三四郎』や『それから』や『門』や、あるいは『彼岸過迄』や『行人』や『こゝろ』や、後に彼の「三部作」と称される作品群を始めとして、次から次へと、筆を躍らせていった。

その意味において、今回、僕が君に話を聴いて貰(もら)いたい、この『草枕』という作品は、冒頭にも述べておいたように、夏目漱石の職業作家以前の作品であり、まったく同年に書かれた『坊っちゃん』(原題→『坊つちやん』)や、さらに、それに先立つ『吾輩は猫である』と並んで、言ってみれば、彼の「習作」段階の作品のように見なされる傾向が......ない訳では、ないけれども、むしろ僕は夏目漱石の、この段階の小説――と呼べるのか、どうかも判然としない小説群の中に、逆に彼の、いわゆる「職業作家」への熱望や煩悶や、決意や不安を読み取ることが出来るかのような気がして、興味は尽きない。とりわけ、この『草枕』と『坊っちゃん』と、さらに『二百十日』の書かれた年(すなわち、明治39年)が夏目漱石に及ぼした影響には、著しいものがあったのではなかろうか。

そのような感想を、僕に持たせる理由を『草枕』から拾い上げてみると、まず大きな理由としては、この作品に何度か、顔を覗かせる「戦争」の問題がある。この「戦争」については、このブログ(第42回:締切(しめきり)について)でも、偶々(たまたま)僕は「締切」という語の用例として『草枕』の一節(「戦争が始まりましてから、頓(とん)と参〔まゐ〕るものは御座〔ござ〕いません。丸で締め切り同様で御座います」)を引用しておいたことがあるので、君も覚えてくれているかも知れないね。この「戦争」が、いわゆる「日露戦争」を指し示す語であったのは、この作品においても、この「戦争」が「今度の戦争」とか、そのまま「日露戦争」という名で呼ばれているから、はっきりしている。でも、君や僕は普段、このような「今度の戦争」という言い方を、するであろうか?

おそらく、このような言い方を、するのか、しないのか......それが突き詰めれば、君や僕の「戦争」についての感受性(sensibility=知覚可能状態)の、有無を表現しているであろうし、そこから結果的に、夏目漱石と君や僕との間に、ある種の越え難い、人間の落差が存在しているとすれば――それは、このような「今度の戦争」や、裏を返せば、前回の戦争や次回の戦争や、前々回の戦争や次々回の戦争や......そのような「今度の戦争」の繰り返しの中に生き、暮らさざるをえなかった、人間の落差であろう。言い換えれば、そのような「今度の戦争」を生涯において、幾度も経験し、その度に、それぞれの戦前や戦中や戦後を、自分自身の問題として引き受けざるをえなかったのが、ほかならぬ夏目漱石という作家であったことを、君や僕は忘れるべきではないし、忘れてはならないはず。

例えば、この『草枕』という作品の末尾で、それまで「ほほほほ」とか「ホホホホ」とか、いつも決まった笑い声を上げていた「那美さん」が、かつての結婚相手を「今度の戦争」の渦中にある、満洲へと向かう汽車の窓に見つけた所で、この作品は終わっている。そして、その時、彼女の顔に「不思議にも今迄(まで)かつて見た事のない「憐(あは)れ」が一面に浮いてゐる」瞬間で、夏目漱石の筆は止まる。多分、ここから物語は反転して、ふたたび冒頭の有名な一節(「山路を登りながら、かう考へた。〔改行〕智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さを)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」)へと回帰するのであろう。が、その点に話を移す前に、今回は夏目漱石の「文明論」の中でも、秀逸な「汽車論」を引き、これにて年頭の挨拶は終了。

 

汽車の見える所を現実世界と云ふ。汽車程〔ほど〕二十世紀の文明を代表するものは〔、〕あるまい。何百と云ふ人間を同じ箱へ詰めて轟(ぐわう)と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆〔、〕同程度の速力で、同一の停車場(ステーシヨン)へ〔、〕とまつて〔、〕さうして、同様に蒸滊(じようき)の恩沢(おんたく)に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云ふ。余は積み込まれると云ふ。人は汽車で行くと云ふ。余は運搬されると云ふ。汽車程〔、〕個性を軽蔑したものはない。文明は〔、〕あらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によつて〔、〕此(この)個性を踏み付け様(やう)とする。〔中略〕余は汽車の猛烈に、見界(みさかひ)なく、凡〔すべ〕ての人を貨物同様に心得て走る様(さま)を見る度に、客車のうちに閉じ籠められたる個人と、個人の個性に寸毫(すんがう)の注意をだに払はざる〔、〕此鉄車とを比較して、――あぶない、あぶない。気を付けねば〔、〕あぶないと思ふ。現代の文明は此〔、〕あぶないで鼻を衝(つ)かれる位〔、〕充満してゐる。おさき真闇(まつくら)に盲動する汽車は〔、〕あぶない標本の一つである。

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