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いたたた......と呻く人 ――「教養」の来た道(108) 天野雅郎

最近、僕にしては割と、こまめに更新を続けてきた、この網状談話(weblog)を半月あまり、お休みせざるをえなくなったのは、この二週間程、僕が「いたたた......」と呻(うめ)き続けていたからに他ならない。――と言ったのは、何と我が家の階段で、不用意にも転んでしまい、脇腹を強打して、痛みが酷く、ひょっとして肋骨にヒビが入っている虞(おそれ)もあったので、レントゲンを撮りに病院に行ったり、湿布(シップ)を貼ったり、その名の通りに、胴体(cors)をコルセット(corset)で固めたり、いろいろ煩わしいことが多く、あまり「教養談義」に花を咲かせる気が起きなかったからである。でも、僕が階段で転ぶとすれば、それは酒を飲み過ぎたか、それとも本の整理に余念が無かったか、その程度の理由しか思い浮かばないのが、僕の生活のシンプルさを物語っている。

なお、この「呻く」という語が、そもそも「う」という擬声語から産み出された語であったことを、君は知っていたかな? 論より証拠、ここで久々に『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引くと、そこには「呻く」の「めく」が、例えば「春めく」や「人めく」や、あるいは「ざわめく」や「なまめく」のように、もともと「......のようになる」という意味を表わす動詞を作る、接尾語であるのに対し、その上に冠せられている「う」という語(感動詞!)は、実は「人間が苦しみのあまりに出す声や、動物の低い鳴き声などを表わす擬声語と考えられる」と書かれている。――要するに、このようにして人間は「嘆息の声をあげる」時や「ためいきをつく」時に、はたまた「苦心して詩歌を作り出す」時や「苦吟する」時に、さながら「牛や犬などが低くうなる」ような声を出す訳である。

ちなみに、このような「呻く」という語が姿を見せるのは、どうやら平安時代も中期になってからのことらしく、例えば『日本国語大辞典』が用例に挙げているのは、動詞形(呻く)の方が清少納言(せい・しょうなごん)の『枕草子』であり、名詞形(呻き)の方が右大将、藤原道綱母(ふじわら・の・みちつな・の・はは)の『蜻蛉日記』であったから、およそ今から一千年あまり前の用例になる。が、このような形で用例を並べても、その当の使い手たちが、まったく僕には名前の分からない、ただ「少納言」という官職名を貼り付けたり、そこに「母」という語を付け足したりすることしか叶わない、言ってみれば、匿名(anonym)の作者であったことに、まさしく僕は「呻き」を上げて、口から「ウンウン」と「呻(うな=唸)り」の声を発したくなるけれども、さて君は、どうであろう。

ところで、このようにして体や心が痛い時に、どうして君や僕は「いたたた......」という声を上げるのであろうか。と言い出すと、それは言うまでもなく、君や僕が日本語で、このような状態を「痛(いた)い」という形容詞で表現したり、場合によっては、そこに「痛(いた)む」という動詞を宛がったり、しているからに他ならない。この点についても、ふたたび『日本国語大辞典』には懇切な説明が添えられていて、この二つの語は「同根」の語であり、そもそも「程度のはなはだしさを意味するイタから派生した」語であったことが分かる。また、すでに「上代では肉体的・精神的な苦痛をいう」際に、この「痛い」という語が用いられていたことや、この語の連用形(「痛く」)は、主として「胸中に苦痛を伴う哀切感を表わす」語であったことも分かる。――例えば、次の歌のように。

 

魂(たましひ)は/朝(あした)夕(ゆふべ)に/賜(たま)ふれど/我(あ)が胸(むね)痛し/恋の繁(しげ)きに

 

この歌自体は、もともと『万葉集』(巻第15、3767)に収められている歌であって、いわゆる万葉仮名で書き記されているから、これほど簡単に、スラスラと書き写すことが困難な歌であったことは、この歌の原文(多麻之比波/安之多由布敝尓/多麻布礼杼/安我牟祢伊多之/古非能之気吉尓)を見るだけで、明らかであろう。とりわけ、この歌の中に登場する「魂」(たま→たましひ)という語が、もう一度、その後に「たまふる」という形で姿を見せる時、これを安易に「賜ふる」と置き換えても、構わないのか......どうか、むしろ僕個人は、かつて土橋寛(つちはし・ゆたか)が『日本語に探る古代信仰――フェティシズムから神道まで』(1990年、中公新書)の中で述べていた、あの「魂振」(たまふり)という語に出会った時の感動(impression→刻印→印象)を、忘れることが出来ない。

この歌は、これまた狭野弟上娘子(さの・の・おとがみ・の・おとめ)とか、あるいは狭野茅上娘子(さの・の・ちがみ・の・おとめ)とか、このような呼び名でしか呼ぶことの叶わない、一人の下級女官(蔵部女嬬→くらべ・の・にょじゅ)の歌であり、そのこと自体が、僕は再度、とても残念である。けれども、この娘子(おとめ→をとめ→処女→處女→聖女)の歌を読むことで、君や僕は人間が、お互いの「魂」(たましひ)を求め合い、朝と言わず、夜と言わず、お互いのことを思い、それぞれの胸(むね=宗・旨・棟)に精神的な、それどころか肉体的な、それこそ「痛み」を与えうるものであることを、知ることが出来るし、それが日本語で、この時代から現在に至るまで、ほかならぬ「恋」(こひ→古非→孤悲→戀)と称されてきたものに違いないことを、知ることが出来るのである。

さて、このような話を続けている内に、ふたたび僕の頭には、例の『草枕』の中で夏目漱石(なつめ・そうせき)が、いつも「ほほほほ......」という笑い声の主(ぬし)に仕立て上げていた、あの「那美さん」の姿が髣髴(ほうふつ)としてきた次第。この小説は、現在の熊本県玉名市にある、小天(おあま)温泉が舞台になっているようであるから、この小説が書かれる9年前、明治30年(1897年)の大晦日に、この温泉を漱石自身が訪れ、年越しをした際の経験と、そこで出会った、前田案山子(まえだ・かかし)の娘、卓(つな)の強烈な印象が、この小説のヒロインである「那美さん」を産み出したであろうことは、周知の通りである。当時、漱石自身は熊本で、旧制第五高等学校の教師をしており、年齢は数えの32歳、満年齢で言えば、ようやく31歳になろうとする折のことである。

実際、この小説に「那古井(なこゐ)の温泉場」として描かれる、その湯漕(ゆぶね=湯船)に身を浸し、主人公の「余」が白楽天(ハク・ラクテン)の『長恨歌』の一句(温泉水滑洗凝脂)を想い起こし、あるいはミレー(John Everett Millais)の『オフィーリア』について、あれこれ瞑想(妄想?)に耽っていると、そこに突如、一糸も纏(まと)わぬ、露(あらわ)な姿で現(あらわ)れるのが、言うまでもなく「那美さん」である。そして、この時を境にして、それまで平仮名で「ほほほほ」と笑っていた「那美さん」が、これ以降、片仮名で「ホホホホ」と笑うことになる。それが、漱石自身にとって、重要な操作であったのか、どうかは二の次の話である。むしろ、この時を境にして、この小説の中に「那美さん」は、そのまま「那美さん」という名で、登場するに至ったのである。

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