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読書という体験 ――「教養」の来た道(11) 天野雅郎

読書は「体験」である――という、ある意味においては当然の、ある意味においては意外な、この逆説的(パラドキシカル)な事実を君に伝えるために、僕は今回、このような表題(「読書という体験」)を選び、筆を起こしているが、この「体験」という語自体が大変な……これは決して、駄洒落(だじゃれ)でも何でもないけれども、まさしく一筋縄では行かない語であって、ここでも試しに『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「体験」の語を引くと、そこには「哲学で、主観と客観とに分けられる以前の、個人の主観の中に直接にみられる生き生きした意識過程や意識内容。特に生の哲学で、実在の真相に直接に触れる生のあり方、過程」という、きっと君にはチンプンカンプンの、ひどく理屈っぽい言い回しに出くわすことになるのであるから、驚きである。

もっとも、この語釈は「体験」の語の、二番目に挙げられているものであり、ちゃんと一番目には「自分が実際に身をもって経験すること。また、その経験」という、ごく有り触れた、在り来りの説明が載せられているから、安心して欲しい。とは言っても、これでは単に「体験」という語を「経験」という語に置き換えたに過ぎず、何の説明にもなっていないではないか(!)と、君が『日本国語大辞典』を相手に喧嘩(けんか)を売るのであれば、それは相当に見上げたものである。確かに、この説明は一見、説明のようではあっても、説明ではない。そこで、今度は同じ『日本国語大辞典』から「経験」の語を引いてみると、どのような結果になるであろうか? はたして『日本国語大辞典』が、君の喧嘩を買ってくれるような辞書であれば、とても僕は嬉しいのであるが。

と言ったら、とっくに答えは見え見えであるけれども、何と『日本国語大辞典』は「経験」の語釈の一番目に、これを「実際に見たり、聞いたり、行なったりすること。また、それによって得た知識や技能」という、いかにも陳腐な、当たり障りのない説明を、そして二番目には「実験」という、これまた味も素っ気もない説明(と言うよりも、ふたたび置き換え)を並べているに過ぎず、これでは一体、何のために辞書を引いているのか訳が分からなくなる、と嘆いた矢先……オッと、よく見れば『日本国語大辞典』には三番目に、もう一つの語釈が載せられており、そこには「哲学で、一般的には、感覚や知覚を介して実際に生じた主観的状態や意識内容をいう。プラグマティズムでは自己と環境の交互作用を通じて発展していく知性の過程全体」と記されているではないか。

流石(さすが)、我が愛用の辞書である。――と、このようにして僕は、いつも嘆いたり、喜んだりすることを繰り返しながら、辞書を引き続けているが、その結果、例えば今回の「体験」や「経験」や、あるいは「実験」という語――君にしても僕にしても、ごく当たり前に、これまで慣れ親しんできた語の背後には、実は君が縁(えん)も縁(ゆかり)もない、と思い込んでいた「哲学」が潜んでいることを、君が知ってくれることにもなったはずであるし、そのことを知って、少しは君も「哲学」を身近なものに感じてくれると有り難い、と願いもすれば、それとは逆に、これまで「体験」や「経験」や、あるいは「実験」という語と付き合ってきた際の馴れ合いから、君が身を引き離し、これらの語の成り立ちを振り返ってくれるのであれば、それは結構、この上ない話である。

と言うのも、これらの語は字面(じづら)の通りに、いずれも「験」という字に「体」や「経」や、あるいは「実」という字が重ね合わされており、そもそも漢字起源の語(すなわち、漢語)であったことは明瞭であるけれども、そこに馬(験=馬+僉)のイメージが刻み込まれている理由まで、君は考えたことがあったろうか。この点については、例えば白川静の『字訓』(1987年、平凡社)によると、どうやら「馬もまた神事に用いることが多く、験とは競べ馬やその他の方法で、神意を験することをいう字であろう」と書かれているので、納得が行く。要するに、もともと「験」という「神事」に基づいて、その「神意」を窺い、そこに「効果の有無」(同上)を判断するのが、いわゆる「験(しるし)有り」や、その反対の「験(しるし)無し」であったことになる。

ところが、このような「験」(ケン・ゲン)という漢語や、それに相当する「しるし」という和語に代わって、やがて私たちは近代以降、それまで「体験」や「経験」や、あるいは「実験」という語に伴われていた……例えば「霊験」という語において典型的に示されているような、宗教の権限を剥奪し、ある場面では哲学的に、ある場面では科学的に、これらの語を使い出し、分離するまでに至っている。ふたたび『日本国語大辞典』の助けを借りると、そのような分離は「明治三〇年代以降」に定着し、それ以降は「体験」や「経験」が哲学の側に、科学の側には「実験」が割り振られるようになったようである。したがって、君も例えば「実験室」という名で「哲学実験室」を思い浮かべることはなく、もっぱら「科学実験室」を思い浮かべるのみであろうが、これが「試験室」となると、それは「哲学試験室」のことかな、それとも「科学試験室」のことかな?

さて、この程度で前置きは、もう充分であろうから、ここで前回、太宰治の『津軽』が最高潮(クライマックス)を迎えるシーンに立ち返り、今回の表題(「読書という体験」)に相応しい内容を付け加えておくと、彼が小学校(当時の呼称は、国民学校)の運動場を行ったり来たりしながら、必死で探し回ることになる女性とは、もともと彼の子守(こもり)であり、それにも拘らず、結果的に彼の読書係となり、教育係となり、言ってみれば、彼の家庭教師となった下女、越野(旧姓:近村)タケである。しかも、その下女のことを太宰治は「母」と呼び、自らの生涯が「その人に依つて確定されたといつていいかも知れない」とまで言い放っている。この間の経緯は『津軽』の中の、そして、そこに収められている『思ひ出』の中の、以下の文章に詳しいので、抜き出しておこう。

このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。以下は、自作「思ひ出」の中の文章である。(改行)「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけ〔以下、タケ〕といふ女中から本を読むことを教へえられ、二人で様々の本を読み合つた。タケは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、タケは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。……」(改行)私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、タケである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、タケと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はタケに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、タケを呼んだが、タケは来ない。はつと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。タケゐない、タケゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。(『太宰治全集』第7巻)

当時、このようにして太宰治の生家には、多くの使用人を含めて、三十人を超える大家族が暮らしており、その中の一人が、彼の数えの3歳から8歳までを共に過ごした、女中の越野タケであった。もっとも、この当時の彼女は太宰治の、たかだか11歳年長であるから、今風に言えば、中学生が保育園児や幼稚園児を相手に本を読み合い、それが高校生と小学生の間柄にまで引き継がれたに過ぎない、と言えば言える。しかし、そのような間柄であったからこそ、そこから私たちは「主観と客観とに分けられる以前の、個人の主観の中に直接にみられる生き生きした意識過程や意識内容」を受け取るのであり、また、それを「実在の真相に直接に触れる生のあり方、過程」として、いずれ私たちは懐かしく、悩ましく、痛ましく、その喪失を嘆かざるをえないことにもなるのである。

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