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間(あいだ)の哲学 ――「教養」の来た道(119) 天野雅郎

最近、間(あいだ)という日本語のことが、とても気になっている。事実、このブログにおいても、ここ暫く、僕は君に歌(うた)や、その歌を「よむ」という行為について、あれこれ話をしているのであるが、ふと気が付くと、いつも結局、間(あいだ)の話に辿り着いている次第。――とは言っても、それは多分、僕個人の置かれている状況ではなくて、君も僕も含めて、あらゆる日本人の置かれている状況であり、それどころか、おそらく世界中の、多くの人の置かれている状況であったに違いない。したがって、そのような状況(condition→条件、situation→位置、circumstance→環境)は、言ってみれば、グローバル(global)な状況であり、それが地球(globe)の至る所に蔓延している以上、君や僕が何処で、どのような生活を営んでいても、逃れる術(すべ)は、ないのである。

ところで、この間(あいだ)という日本語を音読し、漢字で読めば、呉音(=中国南方音)では「ケン」となり、漢音(=中国北方音)では「カン」となる。前者については、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で間(ケン)を引くと、そこには「建物の外面、主として正面の柱と柱の間。また、ひろく四方を柱で囲まれた空間を数えるのにも用いる」と説明されており、そこから結果的に、この語が「碁盤、将棋盤などの目を数える」際に使われたり、あるいは「建物を数える単位」や「長さの単位」になり、ひいては兜(かぶと)の鉢の、板金の枚数を称したり、扇の骨と骨の間の、広がりを指し示す時に用いられるようになっても、いずれも間(ケン)は空間的な、その名の通りに間(ま)を空(あ=明・開)ける行為や、その程度の如何を、表現する語であったことが分かる。

ところが、これを今度は、続けて『日本国語大辞典』の間(カン)の語釈と比べてみると、そこには同じく「物や人、または、場所などの〔、〕それぞれのあいだ。間隔。また、その空間」という説明(すなわち、空間的な説明)と並んで、その後に置かれているのは「事と事との時間的な〔、〕へだたり。また、一続きの時間」という説明(すなわち、時間的な説明)である。そして、さらに「人や物事の〔、〕あいだの関係。仲(なか)」という説明(すなわち、人間的な説明)まで、これに続いており、それに加えて、それが「よい機会。しお」や、逆に「心の〔、〕へだたり。仲たがい」や、おまけに「まわしもの。間諜(かんちょう)」を意味する事例も添えられている。要するに、このようにして間(カン)の場合には、そこに間(ケン)とは違う、複雑な意味合いが込められていた訳である。

とは言っても、そのような複雑(complex=「抱擁」的→合成的・混交的・錯綜的・抑圧的、潜在的......)な意味合いを、実は最初から、そもそも伴っているのが日本語の、いわゆる「あいだ」(←あひだ)であり、ここでも『日本国語大辞典』の助けを借りるならば、もともと日本語では「二つのものに〔、〕はさまれた部分」を指し示しているのであれば、それが空間的な関係であっても、時間的な関係であっても、人間的な関係であっても、ことごとく、それは「あいだ」の語によって表現が可能である。ついでに、これまた『日本国語大辞典』の語誌に従えば、その「はさまれた部分は大きなものである場合(「月と地球の間」)、すきまがない場合(「二枚の紙の間」)、抽象的なものである場合(「親子の間」)などがある」のであって、これだけでも充分に、この語の複雑さは君に伝えられたはず。

とは言っても、と僕は繰り返すけれども、このような複雑な意味合いを、それほど意識することなく、自覚することなく、君や僕は普段、何とも単純(simple)に使い分け、使い熟(こな=粉)しているのが実情である。論より証拠――と、これを英語では君の好きな、もともと「ソーセージ」の一種であり、やがて「プリン」を指し示すことになる、あの「プディング」の諺(ことわざ→The proof of the pudding is in the eating)を使って、言い表すのであるが、それは僕の好きな......そして、例の『草枕』の中でも夏目漱石(なつめ・そうせき)が、ひたすら称賛していた「羊羹」(ようかん)が、そもそも読んで字の如く、羊(音読→ヨウ、訓読→ひつじ)の羹(音読→カン、訓読→あつもの→熱物→スープ)のことであり、それが後世、いわゆる「羊羹」に姿を変えるのと同じである。

閑話休題。このようにして振り返ると、例えば『万葉集』に三十回ばかり、次のような形で用いられている、この「あいだ」(←あひだ)という語の使い方が、君や僕にも違和感なく、理解できるかのように感じられても不思議ではない。順番に、いちおう空間的な用法、時間的な用法、人間(呉音→ニンゲン、漢音→ジンカン)的な用法に分けて、以下に三首を挙げておくと、一番目の歌(巻第十一、2448)には「白玉(しらたま)の間(あひだ)」とあるから、これは具体的に、いわゆる真珠(パール)に糸を通して、手に巻き付けた、まさしく腕輪(ブレスレット)のことを指し示している。当然、養殖真珠や人工真珠ではなくて、天然真珠であったから、ご安心を。それに対して、二番目の歌(巻第十一、2667)は、いくら時間が経っても、やってこない男を、女が待ち続けている歌である。

ところが、三番目の歌(巻第十一、2741)のように、あるいは、この歌の少し前に並んでいる、二つの歌(2736「風を痛み/いたぶる浪(なみ)の/間(あひだ)無く/吾(あ)が念(おも)ふ君は/相(あひ)念ふらむか」2737「大伴(おほとも)の/三津(みつ)の白浪(しらなみ)/間無く/我(あ)が恋ふらくを/人の知らなく」)のように、これらの歌に姿を見せる、それぞれの「あいだ」が突き詰めれば、空間的な意味なのか、時間的な意味なのか、人間的な意味なのか、と訊かれても、君や僕は答えに窮してしまうに違いない。強いて言えば、それは空間的な意味でもあり、時間的な意味でもあり、人間的な意味でもある、と応じざるをえない「あいだ」であり、そのような「あいだ」を、空間的にも、時間的にも、人間的にも、すべての恋人は引き受けていかざるをえないのである。

 

白玉の/間開(あ)けつつ/貫(ぬ)ける緒(を)も/縛(くく)り依(よ)すれば/復(また)も相(あ)ふものを

真袖(まそで)持ち/床(とこ)打ち払(はら)ひ/君待つと/居(を)りし間に/月傾(かたぶ)きぬ

大(おほ)き海に/立つらむ波は/間あらむ/公(きみ)に恋(こ)ふらく/止(や)む時もなし

 

さて、このようにして今回も、僕は君に「あいだ」という日本語の、幅の広さと言おうか、奥の深さと言おうか、前回までの歌(うた)や、その歌を「よむ」という行為と同様の、日本語の豊かさについて、いろいろ話を聴いて貰(もら)ってきたのであるが、どうやら紙幅も尽きた上に、まだまだ話は終りそうにない。そこで、さしあたり今回は『万葉集』の中から、僕が「あいだ」を詠み込んだ歌の中で、いちばん気に入っている、次の防人(さきもり=崎守)の歌(巻第十四、3571)を引いて、幕切れとしたい。第二句に「人の里に置き」とあるのは、ここでは別の、他人の暮らす村に置き去りにして、という意味である。第三句に「おほほしく」とあるのは、漢字で書けば「鬱」(音読→ウツ)となり、この時、この男が塞ぎ込み、鬱々として歩いた、その道の、全行程を指し示している。

 

己妻(おのづま)を/人の里に置き/おほほしく/見つつそ来(き)ぬる/この道の間(原文:安比太)

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