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経済学は、お好きですか? ――「教養」の来た道(122) 天野雅郎

経済学は、お好きですか? ――と訊(き)かれたら、はたして君は、何と答えるであろう。好きです、と答える側であろうか。嫌いです、と答える側であろうか。まあ、どちらでも構わないけれども......と、実は昨年の、ちょうど今頃、僕は「ボランティアは、お好きですか?」という一文を、この一連の文章(「教養」の来た道)に挿(さしはさ=挟)んでいたのを想い起こしたので、今回は前回の話題からは幾分、違った話になるけれども、僕は君に「経済学」の話を聴いて貰(もら)いたい。とは言っても、今回も前回に引き続き、僕の頭の中には恋や愛や、要するに、人が人を好きになったり、物を好きになったりすることは、どういうことなのか知らん、という問いが置かれている点は同じである。

と言う訳で、さっそく恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「経済学」の語を引くと、そこには一番目に「経済現象の法則を研究する学問。理論経済学と応用経済学に大別される。理財学」という語釈が置かれ、この語が『慶応再版英和対訳辞書』に載っている語であったことが付け加えられている。この辞書は、正確には『英和対訳袖珍〔シュウチン〕辞書』と言い、英語名には"A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language"と書かれていることからも明らかなように、まさしく「ポケット」版の英和辞書であり、その名の通りに袖(そで)の中に入れて、持ち運ぶことの出来る、小型の辞書のことである。――と言いたい所ではあるが、この辞書自体は日本初の、本格的な英和辞書であり、そのページ数は実に、953ページにも及ぶ、堂々とした辞書であった次第。

この辞書が刊行されたのは、もともと文久二年(1862年)のことであったが、それを五年後(慶応三年→1867年)になって、再版したのが『日本国語大辞典』の挙げている、前掲の『慶応再版英和対訳辞書』である。この辞書を、中心になって編纂したのは、堀辰之助(ほり・たつのすけ)という人物であって......この、江戸時代の末年の、江戸幕府の通詞(つうじ=通訳)のことを、もっと君や僕は、振り返る必要がある。また、この辞書を共同で編纂したのが、前々回、僕が君に名前を伝えておいた、あの西周(にし・あまね)であったし、あるいは安政元年(1854年)の「黒船」の来航の折、そこで通訳の堀辰之助と、きっと顔を合わせていたに違いないのが、これまた前々回、僕が君に名前を伝えておいた、例の『英華字典』の編者(ヴィルヘルム・ロプシャイト)であったことになる。

その意味において、例えば先刻の『日本国語大辞典』の「経済学」の語釈の中で、その末尾に「理財学」という語が添えられていたのを、君には想い起こして貰いたい。この語自体と、おそらく君は初対面であったろうが、この語は何と、明治時代から大正時代を通じて、目下、君が「経済学」と呼んでいる学問の別称として用いられ、まったく同等の地位を占めていたし、それどころか、どうやら明治時代には「理財学」の方が、はるかに優位な立場を保っていたようである。なにしろ、私たちの国で最初の、唯一の大学である「東京大学」(明治十年創設→1877年)においても、あるいは「帝国大学」(明治十九年創設→1886年)においても、主として「経済学」は「理財学」と称され、それが「経済学」に改められるのは、明治二十六年(1893年)を俟(ま)たねばならなかったからである。

ただし、それ以降も「理財学」は、決して「経済学」の旧称となり、そのまま死語と化してしまった訳ではなく、少なくとも「帝国大学」の権威の及び難い場所や、その権威に対して、与(くみ)することを潔(いさぎよし)としない人々の間では、あいかわらず使い続けられた語であった。――と言うことは、どのような理由や根拠によって、そもそも「理財学」は「経済学」に改められたのであろうか。そして、そのような改変が生じ、昨今の流行(はやり)言葉で言えば、いわゆるイノヴェーション(innovation)の波が押し寄せてくる背景には、どのような歴史の欲望が渦を巻いていたのか知らん......と君には考えて欲しいし、ましてや君が経済学部に所属していたり、経済学に興味を持ち、経済学の勉強をしたりしているのであれば、それは君自身の、まさしく死活問題であったはず。

もちろん、このようにして「経済学」が、少なくとも「東京大学」や「帝国大学」の歴史の中で、はっきりとした自己主張(self-assertion)をし始める、その出発点となる年(明治二十六年)は、君も知っているように、君や僕が今、日本語で「日清戦争」と呼んでいる戦争の、勃発する前年のことである。が、そのような大きな、多くの人を不幸の、どん底に陥れる、戦争という出来事のことを、さしあたり僕は君に語るよりも、その同じ年(明治二十七年→1894年)に、わずか満26歳の生涯を自殺という形で閉じた、北村透谷(きたむら・とうこく)の姿や、前回に引き続き、彼の『厭世詩家〔エンセイシカ〕と女性』(明治二十五年→1892年)の冒頭に置かれている、あの「恋愛は人世(じんせい)の秘鑰(ひやく)なり」という一文を、ぜひとも記憶に留めて貰いたい、と願っている。

なぜなら、このようにして特定の、時代の荒波の中で生まれ、消えていった、短い命の追憶や、その命(いのち=「生の霊」→白川静『字訓』)の発した、小さな言葉の連なりを穿鑿(センサク)することによってしか、君や僕は決して、歴史(history→his story/her story)の実相には辿り着けず、その真相に思いを馳(は)せることは不可能であったから。その意味において、この同じ年、志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』が刊行され、そこから私たちの国の「観光」ブームや、より具体的に言えば、日本の近代的な「登山」観が産み出されることになる経緯も見逃されてはならない。この点については、やがて僕は君に、この「観光」や「登山」や、何よりも「風景」という語の成り立ちと、その変貌を通じて、現代の日本人の「しくじり」を論じる心算(つもり)である。

さて、そろそろ紙幅も尽きてきたので、これから先は次回に、話を譲らざるをえない。けれども、ここで最後に今回の、このブログの表題にもなっている、最初の問いに立ち返り、いったい僕は「経済学」を好きなのか、それとも嫌いなのか、その白黒を、はっきりさせておくべきであろう。――とは言っても、すでに君は先刻、その答えを充分に、察知してくれているであろうから、僕は以下に『日本国語大辞典』の「経済学」の、二番目の語釈を掲げることで、その責任逃れ(......^^;)を図ることにしよう。こちらの方は、もともと中国の詩人の厳維(ゲン・イ)の漢詩(秋日与諸公文会天寺)に由来する語であり、このような中国的な、ひいては日本的な理解に従えば、そもそも「経済学」とは「国を治め、民を守ることを研究する学問」であり、そうであらねば、ならない学問であった。

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