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アダム・スミスと日本人 ――「教養」の来た道(126) 天野雅郎

私たちの国で最初に、アダム・スミスの『国富論』を日本語に置き換えたのが、石川暎作(いしかわ・えいさく)の『富国論』(明治十五年→1882年)であったことは、すでに前回、君に伝えておいた通りである。が、この翻訳自体は不幸にも、石川暎作が明治十九年(1886年)に満28歳を待たずに病死をしてしまうので、その後を継いだ嵯峨正作(さが・しょうさく)との共同訳という形で、明治二十一年(1888年)に完成を見ることになる。ただし、その二年後の明治二十三年(1891年)には、これまた嵯峨正作が38歳の若さで、この世を去ってしまうから、それ以降、ちょうど大正十二年(1923年)にアダム・スミスの「生誕200年」が巡って来て、竹内謙二(たけうち・けんじ)の『全訳富国論』が出版される時まで、日本語で読める『国富論』は、はなはだ数が限られていたことになる。

なお、このようにして私たちの国で、最初は『富国論』という名で訳されていた、アダム・スミスの『国富論』が、その名の通りの『国富論』へと名を改め、こちらが一般的な呼び名となったのも、どうやら彼の、この「生誕200年」の時分であったらしく、例えば大正十五年(1927年)の氣賀勘重(きが・かんじゅう)訳の『国富論』(岩波書店、経済学古典叢書)も、あるいは昭和三年(1928年)の靑野季吉(あおの・すえきち)訳の『国富論』(春秋社、世界大思想全集)も、どちらも表題は『国富論』であった。また、前掲の竹内謙二の『全訳富国論』が、今度は有斐閣から改造社へと出版社を替えて、当時は岩波文庫のライヴァル(rival=川の水を競い合う人)でもあった、改造文庫の中に収められた折(昭和六年→1931年)も、その表題は『富国論』から『国富論』へと改められている。

そして、このような動きに決定的な形を与えたのが、昭和十五年(1940年)から刊行された、大内兵衞(おおうち・ひょうえ)訳の『国富論』であり、これは言うまでもなく、岩波文庫に収められ、戦前から戦後を通じ、私たちの国で多くの読者を獲得した、代表的な『国富論』になる。しかも、それが大河内一男(おおこうち・かずお)の『アダム・スミス』(1979年、講談社)の言葉を借りれば、当時の「言論統制のきびしい〔、〕暗い太平洋戦争の〔、〕さなか」の出来事であったことを、君や僕は想い起こさなくてはならず、この頃の読者が『国富論』の中に、おそらく「戦争批判や戦時体制批判の手がかりを求めようとしていた」であろうことも、忘れるべきではない。その意味において、当時の読者がアダム・スミスの『国富論』に求めていたのは、単に狭い、経済学ではなかった次第。

このことは何度、繰り返しても、繰り返し足りないほどである。なぜなら、そもそも経済学(economics)が君の目に、あるいは僕の目に、はっきり言って(......^^;)悪いけれども、魅力に乏しい、魅力を欠くものとして映るのは、はなはだ経済学な偏狭な、狭隘な学問としてしか、君や僕に感じられなくなったからではなかろうか。もちろん、それは経済学にのみ、当て嵌まる話ではなく、ふたたび大河内一男の言葉を借りれば、それは「学問が今日のように〔中略〕狭く分化して〔、〕たがいに言語不通の状態に」陥ってしまった結果であって、ことさら経済学にのみ、難癖(なんくせ)を付けるべき事態では、まったく無い。でも、どこか経済学には20世紀に冠とした、典型的な学問であった分、幸か不幸か、その傾向が著しいように、僕には思えるのであるが、さて君は、いかがであろう。 

学問や科学の進歩につれて、個々の専門分野は、限りなく狭く深くなってはいくが、同時に〔、〕ある時気づいてみれば、学問の〔、〕そもそもの出発点と目的とを忘れ見失っていたことに気づくのである。なんのための「学問」か〔、〕という問いが〔、〕これである。専門化は学問の進歩のために〔、〕さけることのできない手段であるが、それ以上のものではない。専門化された〔、〕それぞれの知識と技術とは、どこかの時点で、いつかは〔、〕ふたたび当初の人間生活の総体としての理解という立場に〔、〕もどってこなければならなくなる。『国富論』は〔、〕そのことを物語っている。 

ところで、このようにして一冊の書物が、それがアダム・スミスの『国富論』であっても、あるいは、その前後に挿(さしはさ=挟)まれた、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』であっても、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』であっても、それらの書物が君や僕によって、いわゆる「古典」(classic=最上級)と評されるためには、その書物が限られた、わずかな読者を対象とするものではなく、より広い、より多くの読者に対して、開かれたものであらねばならず、事実、開かれたものであるからである。言い換えれば、このようにして「古典が古典であることとは、それが〔、〕けっして狭い意味の専門書ではない、ということである。学問の専門化は、学問の進歩ではあるが、同時に〔、〕ほんらいの目的と理念とを忘れた技術的なものに堕落することをも意味している」(同上)。

その点において、これまで述べてきたように、私たちの国で今まで、ざっと勘定しただけでも、両手に余る『国富論』の翻訳が、全訳も抄訳も含めて、刊行されていること自体を、君や僕は驚きの目で見つめざるをえないし、それは世界中を探しても、お目に掛かれない事態であったに違いない。と言うことは、それほど日本人の中に『国富論』と繋がる何かが、隠されている、と言うことになるのであろうか。もっとも、その際にも平成十三年(2001年)になって、水田洋(みずた・ひろし)監訳の『国富論』が、岩波文庫から新訳として出版され、平成十九年(2007年)には山岡洋一(やまおか・よういち)訳の『国富論』(日本経済新聞社)が刊行されていることを別にすれば、君や僕が目下、古本という形で入手することの叶うのは、ほとんど昭和四十年代前半の、以下の翻訳ではあるが。

 ① 水田洋訳『国富論』(河出書房新社、世界の大思想)→昭和四十年(1965年)

 ② 大内兵衛・松川七郎(まつかわ・しちろう)訳『諸国民の富』(岩波書店、岩波文庫)→昭和四十一年(1966年)

 ③ 大河内一男編訳『国富論』(中央公論社、世界の名著)→昭和四十三年(1968年)

ちなみに、この内の③の翻訳が、同じ大河内一男の監訳という形で、やがて中公文庫版や中公クラシックス版にも姿を変え、今の君や僕が、いちばん手に入れ易い『国富論』の翻訳になっているけれども、この翻訳自体は昭和五十一年(1976年)に、アダム・スミスの『国富論』の「刊行200年」(1776年→1976年)を記念して、その「一大金字塔」となるべく出版されたものであり、その経緯においても、画期的な翻訳であった。――と、このような細々(こまごま)とした事態を、僕は目下、手許に広げている『本邦アダム・スミス文献』の増訂版(1979年、東京大学出版会)を通じ、君に紹介しているのであるが、この文献目録を編集しているのが「アダム・スミスの会」と呼ばれている、昭和二十四年(1949年)に結成された団体であることも、僕は君に報告しておくべきかも知れない。

なにしろ、僕自身は結果的に、いわゆる「学会」(society)と称される組織や、そこで繰り広げられている「人間交際」......と、例えば福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)は、この語(society)を日本語に置き換えているが、そのような「社交」の場に生来、関心が湧かず、この齢(よわい=世延・世這)に至るまで、ほとんど「学会」という場に足を踏み入れたことすら、ない始末であるから。でも、そのような僕の目にも、この「アダム・スミスの会」は世間並みの、いわゆる「学会」とは違う雰囲気が漂っており、それが詰まる所、この会の初代会長であり、先刻の『本邦アダム・スミス文献』の初版に、昭和三十年(1955年)時点での「序」を書いている、矢内原忠雄(やないはら・ただお)の人間性や、その周囲の、濃密な人間関係が醸(かも)し出す雰囲気なのであろう、と感じられる次第。

わが国におけるスミス研究者の研究連絡と親睦をはかり、すすんでは海外同好の士との交流をめざして、私たちが「アダム・スミスの会」を始めたのは、昭和二十四年も秋深い頃であった。それは、「学会」という呼称から受ける〔、〕かたくるしさから離れるために、特に「スミスの会」と呼ぶことにし、社会科学の慈父ともいうべきスミス、ならびにスミスの周辺をめぐる研究報告に耳を傾け、ささやかな食卓をかこむ〔、〕ひと時の清談に〔、〕よろこびを感ずるスミス愛好者五十名の集いであって、会員の中には、経済学者は勿論のこと、法学、哲学、社会学、文学、書誌学にわたり、多くの分野の人々が含まれている。あれほどに広い視野を持っていたスミス、またスミスの生きた多彩な時代と社会とを全面的に把え上げて行くこと――そこに〔、〕この会のねらいがあり、また存在の意味があると思われたからである。

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