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古典と大学の、あぶない関係 ――「教養」の来た道(128) 天野雅郎

いわゆる「みどく」という日本語がある。漢字で書けば「未読」ともなるし「味読」ともなるが、前者は元来、漢語(すなわち、中国語)であって、読んで字の如く、未(いまだ→まだ)読まれざる、読んではいない状態の本や、より厳密に言えば、文章を指し示す語であり、さしずめ前回も、前々回も、僕が君に話をしておいた「古典」は、その代表格(......^^;)であろう。とは言っても、そのような「古典」を何度も、繰り返し、繰り返し、逆に「味読」をする人がいるのも事実であって、例えば、あの『国富論』を翻訳した竹内謙二(たけうち・けんじ)は「アダム・スミスの味」の中で、これまで「誰一人〔、〕他人の手を借りずに」、ひたすら「『共産党宣言』ならぬスミスを、『論語』ならぬスミスを、百回、二百回でなくとも、少なくとも、十数回は読んだのであります」と、語っている。

ちなみに、ここで例示に使われている『共産党宣言』は、かつてマルクスとエンゲルスが1848年――私たちの国の年号で言えば、江戸時代の弘化五年(=嘉永元年)に、歴史上初の「共産主義者同盟」の宣言(マニフェスト)として起草したものであり、これまで日本語でも、岩波文庫や角川文庫や講談社学術文庫を始めとして、安価で読める翻訳が揃っているし、仮に君に「共産党」という語についての偏見(prejudice=先入観)があるのなら、これを『共産主義者宣言』と訳した、金塚貞文(かねづか・さだふみ)の翻訳も、今では平凡社ライブラリーで容易に入手が可能である。後者の『論語』については、言わずもがな......と言いたい所ではあるが、はたして君は『論語』を手に取り、中学校や高校の漢文の時間以外に、そのページを一度でも捲(めく)ったことが、あるのであろうか。

と言い出すと、かなり僕は不安であるが、ともかく、このような古典の味読を通じて、竹内謙二は「アダム・スミスの味――それは淡きに似て濃く、濃きに似て淡く、まことに濃淡併せ得た世紀の傑作であります」と、この六十年前(昭和三十年→1955年)の講演を締め括ることが出来たのであり、この発言を裏付ける点でも、味読という語ほど似つかわしい語はない。それは、決して単なる、精読でも、熟読でも、愛読でも、耽読でもない。しかも、そのような味読の習慣を、はなはだ興味深いことに、日本人は明治時代以降、英語やドイツ語やフランス語の、まさしく古典の読解を通じて、身に付けたのであって、その証拠に、この語の用例に『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が挙げているのも、中村正直(なかむら・まさなお)訳の『西国立志編』(明治三年→1870年)であった次第。

そのような古典の読解が、現在の君や僕の周囲を見回した時、大学と呼ばれる場所では行なわれているのか知らん......と僕は常々、不安に思い、不審に思っているけれども、少なくとも、かつて僕が大学生であった頃は、例えばヘーゲルの『精神現象学』を、ドイツ語の原文で二十回も、三十回も読んでいる教員(隈本忠敬先生!)は、確実に存在していたのであって、端的に言えば、そのような驚きが僕の、大学生としての出発点であったに違いない。それどころか、そのような見本(お手本?)が存在していることが、大学を大学と称することの出来る、理由でもあれば、大学が単なる教育機関でもなく、研究機関でもなく、そこには教育者や研究者とは違う、文字どおりの「学者」が存在し、竹内謙二も以下に述べているように、大学が生活や思考の訓練の場所であった、理由なのである。

 

私は経済学を三十年やって〔、〕やっとこのごろになって、経済学というものはこんなものかなあ、とおぼろげながら判ってきたような気がする〔中略〕。やっと〔、〕どうも最近老人になって初めて、経済学というものはこんなものかなあと、多少判ってきたような気がします。私は一つの〔、〕あるものを感じました。それは〔、〕いかにして生活すればよいかということを教えられたのであります。いかにして考えればよいかということを教えられたのであります。〔中略〕そして〔、〕これは私の場合『国富論』を通じてであります。すなわち『国富論』を読むこと私は十数回にして、初めてなにか〔原文:なんか〕『国富論』から一つの、昔の言葉で正気というか、なにか目に見えない正気が立ちのぼっているような気がいたし、それに〔、〕やっとふれたような気がするのです。

 

なお、ここで竹内謙二が「正気」と言っているのは、君や僕が目下、中国語の南方音(すなわち、呉音)で「ショウキ」と呼んでいるものではなく、北方音(すなわち、漢音)で「セイキ」と称しているものであり、元来、中国の漢代の緯書(逸文『春秋演孔図』)に由来し、その意味は「中国思想でいうところの、広く天地人の間に存在するという、正しくて大きな根本の力。天地の元気」(『日本国語大辞典』)のことである。そして、そのような「正気」が「邪気」の対語として、日本でも「正しい気風。正しい意気」という形で用いられてきたことを、君には忘れないで貰(もら)いたいし、そのような伝統を踏まえて、竹内謙二も「正気」を「香気」と、置き換えていたのである。「この香気あるいは正気――それが〔、〕じつはアダム・スミスの味ではないか。私は〔、〕そう思っております」。

大袈裟に言うと、そのような「正気」や「香気」を感じ取るためにも、大学生の折に古典を読むことは大事である、と僕は考えている。その上に、とにかく古典は「潰(つぶ)しが効(き)く」からである。......と書いて、ひょっとして君が「潰しが効く」という日本語の慣用句を、知らないと困るから、ここでも『日本国語大辞典』を引いて、この語の紹介を済ませておくと、そこには「(金属製の器物は、溶かして地金にしても、また役に立つ意から)別の仕事に代わっても〔、〕それを〔、〕やりこなす力がある。また、あるものが別の場面でも役に立つ」という語釈が置かれ、その用例には、武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)の『お目出たき人』(明治四十四年→1911年)の一節(「道楽しないやうな男は〔、〕つぶしのきかない、偏屈な男と〔、〕きめてしまふ」)が挙げられている。

ただし、これが例えば、同じ小学館の『デジタル大辞泉』では「《金属製品は、溶かして別の物にすることができるところから》それまでの仕事をやめても、他の仕事ができる能力がある」という語釈になり、そこには「専門職すぎて潰しが効かない」という用例が添えられており、また、三省堂の『大辞林』(第三版)の語釈にも「〔金属製品は溶かして別の製品にすることができることから〕 それまでの職業をやめても、他の職業や他の分野の仕事で十分やっていく能力がある」とあって、ほとんど似た語釈になっている。しかも、このようにして私たちの国の、代表的な中型国語辞典を比べてみると、それが異様に似ている――と言おうか、似過ぎていることが、逆に僕は心配なのであるけれども、よもや君も「潰しが効く」と言い出すと、このような転職話が頭に浮かんでくるのであろうか。

そう言えば、どうやら世間には「潰しが効く職種」や「潰しが効く学部」という言い回しも流布(るふ)しているらしく、前者であれば資格の必要な職業や、後者であれば理系の学部が、これに相当することになっている......ようではあるが、残念ながら、それほど世間は甘くはない。そもそも、前掲のような説明文を並べている国語辞典が、そこに「専門職すぎて潰しが効かない」という用例を挙げていることに、よもや君は気が付かない訳ではなかろうし、このような噂(うわさ→うはさ→浮沙汰?)に振り回されると、それこそ君は「潰しが効かない」状態へと、どんどん嵌まり込んでいく虞(おそれ)がある、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。第一、このような下らない噂に付き合っている暇があるのなら、さっさと君は転職ならぬ、天職探しを始めるべきなのである。

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