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アダム・スミスと、その時代 ――「教養」の来た道(130) 天野雅郎

アダム・スミス(Adam Smith)は1723年に生まれ、1790年に亡くなっている。したがって、いわゆる洋暦(=西暦)で言えば、18世紀の最初の四半世紀を除き、この世紀の残りの時間の多くを、彼は生きたことになる。彼が、イマヌエル・カントや三浦梅園(みうら・ばいえん)の同時代人(contemporary=「はかなさ」の共有者)であったことは、このブログ(第125回「経済学は、道徳的ですか?」)においても、すでに君に報告を済ませておいたが、君も知っての通り、彼(アダム・スミス)が逝去する前年(1789年)には、アメリカでジョージ・ワシントン(「建国の父」)が初代の合衆国大統領に選出されているし、その半年後にはフランスで「革命」が勃発し、あの「人権宣言」(正式名称→「人間と市民の権利の宣言」)が採択されるのを耳にしてから、この世を彼は退(しりぞ)いた次第。

ちなみに、この「革命」(revolution=回転)を、同時代人として経験することの出来た側にいるのが、彼(アダム・スミス)やカントや、あるいは、ぎりぎりモーツァルトであったのに対して、これを経験することの叶わなかった側にいるのが、例えばルソーやヴォルテールや、あるいは、みずからを「国家第一の僕(しもべ)」と自称した、あの「啓蒙専制君主」の代表、フリードリヒ二世(「大王」)であった。そして、その当時、そのプロイセンの領土であり、現在はロシア連邦のカリーニングラード(Kaliningrad)と呼ばれている、ケーニヒスベルク(Königsberg)で大学教授(professor=理性的能力の公的使用者)を務めていたのが、これまたカントであるけれども、この哲学者(philosopher=知を希う人)にとっても、アダム・スミスと同様、生涯の最大のテーマは人間の自由であった。

その意味において、一方でアダム・スミスの『国富論』がイギリスで出版されるのと、一方でアメリカの「独立宣言」が発表されるのと――この二つの出来事が、まったく同じ年(1776年)の出来事に他ならないことを、ぜひとも君には想い起こして貰(もら)いたいし、さらに付け加えれば、この二つの国を股(また)に掛け、トマス・ペインの『コモン・センス』がアメリカの「独立戦争」を後押しするべく、刊行されるのも同じ、この年の出来事であった。要するに、このようにして時代(time)とは、そこに存在する、すべての事物を、植物も動物も人物も含めて、あらゆる物(もの)を物(もの)として巻き込み、流れ......それぞれの起伏や浮沈や消長や、いわゆる栄枯盛衰をも伴いながら、ついには一切を葬り去る、あたかも潮流(tide)のごとき姿でイメージされるのが常である。

が、そのような潮流(タイド)の、どの段階において時代(タイム)を意識し、自覚することになるのかは、もとより人間の知性や感情や、意志の限界を超えており、例えばアメリカの「独立宣言」を、五十歳を過ぎてから経験した、アダム・スミスやカントと、これを二十歳前後で経験した、モーツァルトやマリー・アントワネットや、あるいはロベスピエールとの間には、当然、いちじるしい隔たりがある。また、それを六十歳代の半ばで経験した、ルソーやフリードリヒ二世や、いわんや、この年、死の直前に「独立宣言」を知ることになる、ルソーともカントとも、とりわけアダム・スミスとも、それぞれ違った形で因縁(インネン→直接的「因」+間接的「縁」)の深い、デイヴィッド・ヒュームの場合を持ち出すならば、結果的に人間に宛がわれる時代の相貌は、いたって多彩である。

けれども、それを四十歳代で経験した、ジョージ・ワシントンと、片や三十歳代で経験した、トマス・ペインと――ひいては八十歳代で経験した、ヴォルテールとの間にも、それ相応の因果関係(causality)を垣間(かいま)見ることが出来るのは、それが時代の為せる技(わざ=業)でもありえたからであろう。そして、そこから様々な「わざをき」(→わざおぎ=俳優)が姿を見せ、いろいろな「わざうた」(謡)や「ことわざ」(諺)を産み出し、時には「わざはひ」(→わざわい=災・禍)の花をも咲かせ、時代は時代としての「うつろひ」(→うつろい=移)や「おとろひ」(→おとろえ=衰)を示すことになる。と、このような口調でヨーロッパやアメリカが、そもそも歴史哲学(philosophy of history)という名の思考の鍛錬(トレーニング)を積み重ねるのも、この18世紀の百年である。

言い換えれば、そのようなトレーニング(training=列車運行)の一つが、君や僕が目下、経済学(economics)と称している学問に他ならず、その意味において、僕は経済学という名で呼ばれている学問が、たまたま蒸気機関車の誕生と重なり合う歴史を持ち、そのイメージさえ、かなりダブって(カブって?)いるのは偶然ではない、と密(ひそ=秘)かに感じているけれども、さて君は、いかがであろう。と言うことは、この学問に現在でも、経済学という「駅名」を宛がう必要があるのか、どうかは些末な問題であり、それが明治時代のように、家政学や理財学と呼ばれても、いっこうに構わないであろうし、その方が、むしろ君や僕の生きている、この時代に相応しい問題に対処が可能なのであれば、なぜ経済学という呼称に拘泥(コウデイ)し、これに囚われる必要があるのであろう。

と、このような爆弾発言(......^^;)を繰り返しつつ、今回は再度、大河内一男(おおこうち・かずお)の『アダム・スミス』(1979年、講談社)のページを捲(めく)りながら、僕は君に、また「古典」の話を聴いて貰いたい。と言ったのは、この本の冒頭には「なぜ古典を読むか――アダム・スミスの魅力」という章が置かれていて、そこでは「古典」が、それぞれの「時代の問題」と正面から、真剣に取り組む限りにおいて「古典」であり、また、その限りにおいて「古典が古典であるのは、その外形でなくして、その精神である。その時代的な古さではなくして、その時代の「問題」と容赦妥協なく取組もうとした気魄であり勇気である」と述べられていて、この点は日本人が、ただちに「古典」を古い、昔の本と取り違えてしまう、悪い習慣を断ち切るためにも、ぜひとも必要であったから。

 

一つの書物が古典であるということ、そして〔、〕そのかぎりにおいて、数百年を経た後世においても、それが繰返し読むに値するものであるということは、第一に、それが〔、〕その時代の支配的体制や〔、〕その体制を支持している既存の学問にたいして、批判的であることのうちに示されている。その点は宗教でも学問でも同様である。国家公認の宗派や権力と結びついた学問は、当初はともかく、その支配や権力が続くあいだに、しだいに特権や権力になれ、それを喪うことを怖れるようになり、初期の新鮮さと誠実さと大衆性とをうしない、しだいに現状維持的、守旧的なものになり、頽廃的なものになっていく。この体制保守的な権力や〔、〕その背理に正面から対抗し、すべてのことを〔、〕その原点にもどそうとするものが、古典の名に値するのである。

 

と言う訳で、裏を返せば「古典」には「いつの時代にも、つねに時の権力から迫害され、学界からは閉め出される」危険性が、待ち構えていることになる。論より証拠、昨今の君や僕の周囲に溢れている、大学からの「古典」追放の声(「職業教育」万歳!)は、大概、そのような権力の側の締め付けと表裏一体である。なるほど、その点で振り返ると、アダム・スミスの『国富論』は「出版と同時に広く歓迎され、単に学界のみならず、時の政界からも、スミスの所見は〔、〕おおいに歓迎された」と評しうる、かなり「不思議」な経歴を有する「古典」であるのかも知れない。が、そのような大河内一男の発言から、すでに三十年以上の時を隔てて、それが「スミスにとっては幸運なことでもあった」と、あいかわらず言い続けることの妥当な状況なのか、どうか......少なくとも僕には、信じ難い。

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