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アダム・スミス・カフェ ――「教養」の来た道(131) 天野雅郎

さて、今回も引き続き、アダム・スミスの話である。が、これまで僕が、いろいろ彼の話を君に聴いて貰(もら)っているからと言って、それが単に、彼を「経済学の祖」として位置付けることに繋がる訳ではない、という点は、すでに君も了解済みであろう。それどころか、僕自身は彼を、いわゆる「旧約聖書」(The Old Testament=神と人の間に成り立つ、古い掟)の冒頭の、あの『創世記』(Genesis=起源)に登場する「人類の祖」(アダム!)に擬(なぞら)え、その......神(?)の「見えざる手」(an invisible hand→『国富論』第4編第2章)によって、土(humus)から産み出された男(homo)が人類に、ある面では罪責を、ある面では自由を、それぞれ齎(もたら)したと伝える神話さえ、やがて興が乗ったら、ぜひとも君に語りたい、という誘惑に駆られない訳ではないのである。

でも、そのようなアダム(Adam)という名について、いささか僕には不審な点がある。と言ったのは、この名が元来、ヘブライ語の「土」(adamah)に由来するものなのか、それとも「血」(dam)や、そこから生じた「赤い肌」に由来するものなのか、という高度な疑問ではなく、はなはだ程度の低い疑問であり、君に聴いて貰うのも、かなり気が退(ひ)けるのであるが、いったいアダムという名は日本人の感覚で言うと、いわゆる姓(=氏)と名の、どちらに相当する語なのであろう。もちろん、それが結果的に、どちらにも使用可能な語であることは、例えばアダム・スミスの同時代人に、これまたスコットランド出身の建築家で、ロバート・アダムと、その兄弟たちがいたことからも明らかであり、彼らの手で、この当時の有名な「アダム様式」(Adam style)は産み出されることになる。

なお、この両者は生年も没年も、ほとんど似たり寄ったりであるし、その上に彼らは、郷里(カーコーディ)で共に少年期を過ごした、言ってみれば、竹馬の友でもある。とは言っても、無論、アダム・スミスと後年、エディンバラ大学の設計者ともなる、この建築家が竹馬(音読→チクバ、訓読→たけうま)に乗り、遊んでいた――というイメージは、あまりにも日本人の感覚に即し過ぎたものであろう。が、少なくとも僕自身は、このような人間関係や、彼らが共有していた風景や、そこで彼らの暮らしていた住居、着ていた衣服、食べていた料理が......僕の頭の中に、ぼんやりとでも浮かんでこない内は、彼らの生活も人生も、まったく雲を掴(つか)むような話であって、そこから彼らの建築様式や、どのようにして学問が結実したのかを、知ることなど、できっこない、と考えている。

その意味において、すべての学問(study)は必然的に、それに見合った努力と、集中と専念と、要するに、この語の字義どおりの「骨折り」(studium)を、必要とするものではあっても、それを専(もっぱ)ら机の上の、紙の上の作業(すなわち、読み書き)に限定してしまっていては、いっこうに学問の理解(understanding=中間起立)は果たされえないであろう、と僕は信じているけれども、さて君は、いかがであろう。この点は、その学問が特に、君や僕の生活に密着し、人生と連動している領域においては、なおさら顕著な点であり、それが哲学や、そこから直接に派生した、経済学であれば言わずもがな、の話である。そして、そのような経済学の成り立ちや、変遷や変節をも踏まえつつ、僕は君に今回も、性懲(しょうこ)りもなく、アダム・スミスの話題を提供し続けている次第。

事実、彼がグラスゴー大学で、学生の間も教員の間も、いずれも主要な関心を示したのは「道徳哲学」(moral philosophy)であって、そこに経済学は「政治経済学」(political economy)という形で、自然神学と倫理学と法学と並ぶ、四部門の内の一部門を形成していたに過ぎない。この点は、このブログ(第125回「経済学は、道徳的ですか?」)でも、君に報告を済ませておいた通りであるが、そもそも「道徳哲学」という、このような学問領域や、その名称自体が18世紀に固有の、特有の精神風土を表現していたことは、忘れられてはならず、そのような精神風土の中から、やがて経済学は「経済学」(economics)という姿で、自立するに至った訳である。――以下、この点を前回と同様、大河内一男(おおこうち・かずお)の『アダム・スミス』(1979年、講談社)から引用しておこう。

 

当時「道徳哲学」とよばれていた学問領域は、広大な範囲を包括し、人文諸科学を広くふくむものであり、しかも〔、〕それぞれの分野を貫く統一的な人間観なり史観なり哲学が存在していたのである。十八世紀におけるスミス以外の学者をとってみても、たとえばスミスの恩師にあたるフランシス・ハチソン〔原文:ハチェスン〕においても、スミスの先輩で親友のヒュームをとってみても、あるいはフランスの思想家たちをとってみても、いずれも、一つのせまい専門学科に局限されることなく、政治論、経済論、法律論があり、哲学論や文学論が一人の学者の思索のなかに、まとまりのある思想の体系として存在していた。十八世紀の思想とは〔、〕そうしたものであり、その点は十九世紀の前半の時代に至っても〔、〕そうである。

 

ちなみに、ここで「フランスの思想家たち」と呼ばれているのが、例えば17世紀の晩年に生まれた、モンテスキューやヴォルテールでもあれば、そこから二十年前後を隔てて産声を上げた、ルソーやディドロでもある。彼らは、ちょうどヴォルテールがアダム・スミスの「恩師」である、ハチソンと同年に誕生し、また、ルソーやディドロがアダム・スミスの「先輩」の、ヒュームと一年違いで、あるいは二年違いで誕生していることからも窺えるように、まったくの同時代人である。しかも、彼らの間には実際に、お互いの密接な交流が介在しているケースも多いし、そのような交流を産み出し、育む場として、そこにはコーヒー・ショップやコーヒー・ハウスや、君や僕が昨今では「カフェ」と称している社交の場が、とても重要な役割を果たしていたことも、振り返っておくべきであろう。

言い換えれば、そのような「カフェ」に集い、活発な議論を交わした人々の中から、現在、君や僕が「社会学」や「政治学」や、ほかならぬ「経済学」と呼んでいる学問は、形を刻み始めたのであり、決して大学の、閉鎖的な研究室が母胎となって、産み出された学問ではなかったのである。――この点を、ふたたび大河内一男は今から、何と五十年(半世紀!)以上も前に、例の『アダム・スミスの味』(1965年、東京大学出版会)の中の「アダム・スミスにおける「人間」の問題」(1959年「アダム・スミスの会」→『道徳情操論』刊行二〇〇年記念講演会)において、ケンブリッジ大学の『英文学史』の記述を紹介しながら、その名の通りの「珈琲文学」の発祥について報告している。目下、すでに常識(コモン・センス)と化している点ではあるが、君の用に供しうるのであれば幸いである。

 

十八世紀初頭のロンドンには三千軒以上のコーヒー・ショップがあったと言われている。〔中略〕コーヒー・ショップは、単にコーヒーを飲む場所であっただけでなく、新興の第三階級の人々の社交の場所であり、同時にまた、商売の場所でもあった。コーヒー・ショップで商人は取引について客と商談し、工場主は製品の売込みや景気について談合し、弁護士は訴訟のなりゆきについて依頼人とうち合わせ、詩人は、いつものテーブルで作詩に余念がない、といった調子である。コーヒー・ショップは〔、〕だから、かれらにとっての社交場であり、商取引の場でもあり、「珈琲文学」の発祥の地でもあった。

 

裏を返せば、このような時代の、このような「カフェ」の文化が終焉を迎えるに伴い、ようやく19世紀の末年(すなわち、世紀末)に至って、はじめて経済学は「経済学」(エコノミックス)として、それまでの「道徳哲学」(モラル・フィロソフィー)から切り離されることになるのであって、その結果、例えば同じスコットランド出身の、ジェームズ・ミルも、その息子で、もっぱらミルという名で君や僕が想い起こす、ジョン・スチュアート・ミルも、いずれも経済学者(エコノミスト)という肩書を背負わされることになり、彼らが一方では、れっきとした哲学者(フィロソファー)であることすら、忘れられてしまいそうな勢いである。ましてや、それ以前のスコットランド出身の、いわゆる啓蒙主義者の面々は、アダム・スミスを筆頭に、その傾向が顕著であったのは、残念至極な話。

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