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スコットランドの光の中で ――「教養」の来た道(133) 天野雅郎

スコットランド(Scotland)と聞いて、まず君は、何を最初に想い起こすのであろう。仮に君が、ファッションに興味があるのなら、さしずめ「タータン・チェック」の格子柄(ロイヤル・スチュアート? ブラック・ウォッチ? バーバリー?)や、それを用いた「キルト」のスカートあたりであろうか。無論、僕であれば単純に、それは文字どおりの「スコッチ・ウイスキー」であるけれども、もともとスコットランド的な、スコットランド風のものは......何から何まで、ことごとくスコッチ(Scotch)や、あるいはスコティッシュ(Scottish)やスコッツ(Scots)である訳であり、それが「スコッチ・エッグ」であっても「スコッチ・ブロス」(=スープ)であっても、はたまた「スコッチ・テープ」(=セロテープ)であっても「スコッチ・テリア」であっても、まったく構わないはずである。

が、そのように安易に、一筋縄(ひとすじなわ)では行かないのが、いわゆる言語と呼ばれるものでもあって、例えば手許の英和辞典(研究社『新英和大辞典』)で調べると、スコッチもスコッツも、どちらもスコティッシュの省略形ではあっても、スコットランド人自身はスコッチではなく、むしろ北部方言のスコッツや、本来のスコティッシュを好み、これに対して、イギリス(すなわち、スコットランドを除いた連合王国)やアメリカでは一般に、口語にはスコッチを使い、文語にはスコティッシュを用いるのが通例のようである。さらに、面倒なことにスコッチには、いささか軽蔑的な、嘲笑的な意味が含まれることも多いようであり、その意味において、あくまで「スコッチ・ウイスキー」といった言い回しは、結果的に慣用句が、固定化をした言い回しであったことにもなるのである。

ちなみに、その「スコッチ・ウイスキー」の製造技術を身に付けるために、やがて「日本のウイスキーの父」と称されることになる、あの竹鶴政孝(たけつる・まさたか)が遥々と、留学先に選んだのがスコットランドの、グラスゴー大学であったから、言ってみれば彼と、アダム・スミスはグラスゴー大学の、後輩と先輩の間柄であったことになる。――とは言っても、彼(竹鶴政孝)がグラスゴー大学で、有機化学と応用化学を学んだのは、大正七年(1918年)以降、足掛け三年の間であったので、それはアダム・スミスが在籍をしていた時分から、百八十年ほどの時を隔てた頃であったことになる。なお、例のTV番組(『マッサン』)において一躍、有名になった、彼の結婚相手(ジェシー・ロバータ・カウン→竹鶴リタ)も、当然、このグラスゴー出身の、まさしくスコティッシュである。

ところで、そのようなスコットランドの民族衣装(national costume)として、先刻、名前を挙げた「タータン・チェック」(tartan check)の「キルト」(kilt)は、実はアダム・スミスの生まれる前(1715年)と、彼が二十二歳であった折(1745年)に、二度に亘ってイギリスで引き起こされた、スコットランドとイングランドの間の、通称「ジャコバイト(Jacobite→Jacobus→James)の反乱」を通じて、禁止されるに至っており......これが復活を遂げるのは、1822年のイギリス国王(ジョージ四世)のスコットランド訪問に際しての出来事であった。と言うことは、少なくともアダム・スミスの生きていた、18世紀の後半のスコットランドにおいては、このような「タータン・チェック」の「キルト」を身に纏(まと)った、猛々しい男たちの姿を目にすることは、叶わなかった訳である。

なお、この折の「ジャコバイトの反乱」に対して、はじめてイングランドの劇場で歌われたのが、現在でもイギリス(と言うよりも、イングランド)の国歌(と言うよりも、賛歌)として有名な、あの『国王陛下万歳』(God Save the King)であり、当然、これが女王の場合には『女王陛下万歳』(God Save the Queen)となるけれども、そもそもスコットランドには、今では『スコットランドの花』(Flower of Scotland)という「フォークソング」(!)が、国歌同様の扱いを受けている。また、その他の連合王国の国(カントリー)でも、例えばウェールズでは『我が父祖の地』(Land of My Fathers)が、北アイルランドでは『ロンドンデリー・エアー』(Londonderry Air)が、それぞれ国歌の地位を与えられていて、君や僕に「国歌」(national anthem)への熟慮を、強いることにもなるはず。

ともかく、このようにして具体的に、歌(うた=訴)や衣服を例に挙げても、あるいは飲食や住居を例に挙げても、そこには様々な歴史や文化や、その地域に固有の、その時代に特有の、いろいろ複雑な差別(discrimination)の問題が絡み合っているし、そのような差別の中から、いつも人間の知性や感情や意志の体系(システム)である学問は、その形を刻み出すのであり、刻み出さざるをえないのである。したがって、それが経済学であれ、政治学であれ、社会学であれ、いわゆる社会科学(social science)は必然的に、それぞれの立場から、人間性(humanity)の何たるかを慮(おもんばか)る、その名の通りの人文学(humanities)でもあるのであって、それが結果的に、みずからの「科」学であることに執着し、拘泥する余り、その出自を忘れ果てるのは、いかがなものであろう。

なにしろ、そのような「経済学の祖」と目されている、アダム・スミス自身が何よりも、学生であった頃も、教員になった時も、いたって好んだのは文学と芸術と、要するに、それは文芸(literature and the arts)であった訳であり、彼は「グラスゴー大学の道徳哲学の教授になってからも、文芸の講義をつづけており、イギリスの大学で〔、〕はじめて英文学の講義を行ったのはスミスであったともいわれている」。――と、このように述べているのは、浜林正夫(はまばやし・まさお)と鈴木亮(すずき・りょう)の『アダム・スミス』(1989年、清水書院)であるけれども、さしあたり一冊、僕が君に、アダム・スミスへの入門書として薦める本があるとすれば、この本は、その第一候補であり、先刻、僕が君に伝えておいた「ジャコバイトの反乱」や「国歌」の話から、この本は始まっている。

そして、そのようなスコットランドとイングランドの間に交わされた、1707年の「連合法」(Acts of Union)によって、はじめてグレート・ブリテン島の全体を支配する、その名の通りの「グレート・ブリテン王国」(Kingdom of Great Britain)は誕生する。要するに、この時、アダム・スミスが生きていたのは、そのような「経済的に進んだ豊かなイングランドと〔、〕経済的におくれた貧しいスコットランドとの合邦であって、イングランドの人びとには優越感を、スコットランドの人びとには屈辱感を」(同上)......それぞれ産み出しかねない状況の中で、彼ら、アダム・スミスを始めとする面々は、スコットランドの青い空の下、眩(まばゆ)い光の中で、元来、人間の理性を指し示す「自然の光」(lumen naturale)である「啓蒙」(Enlightenment)へと、その熱い、視線を向けたのである。

 

イングランドにくらべて、経済的にも文化的にもおくれていたスコットランドでは、文芸の興隆は、すぐれて啓蒙運動の性格をもった。スコットランドでも、イングランドにややおくれてジャーナリズムが成立し〔中略〕散文芸術の世界でも、トバイアス・スモレット〔原文:スモリット〕や、ややおくれてウォルター・スコットやジョン・ゴールトがあらわれる。しかし、スコットランドの文芸興隆の特徴は、アダム・スミスをはじめ、哲学者のデイヴィッド・ヒュームや歴史家のウィリアム・ロバートソン〔原文:ロバートスン〕など、今日〔、〕スコットランド啓蒙思想家とよばれている一群の学者たちを生みだしたことである。かれらの作品は、狭い意味での文芸、つまり文学ではないけれども、広い意味では文芸といっていいであろう。〔※〕

 

〔※〕目下、この本(『アダム・スミス』)は昨年(2014年)になって、新装版が出ているから、きっと君にも、入手は容易であるに違いない。なお、この本の著者(浜林正夫・鈴木亮)が揃って、北海道(「日本のスコットランド」?)の出身であることは、僕には興味深く、やがて君には、北海道と経済学の深い結び付きについて、僕の酔狂(すいきょう=粋狂)な話を、聴いて貰(もら)うことが出来れば幸いである。

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