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アダム・スミス 大学に入る ――「教養」の来た道(134) 天野雅郎

大学に入る、という行為が必ずしも、ある特定の大学(例えば、和歌山大学)に入る、という行為と、まったく同一の事態を指し示している訳ではない(!)という点は、そもそも大学(university→universitas→universus)という名称自体が、はっきり含意している点でもあって、その点、字義に即して言えば大学とは、まさしく宇宙(universe)にも等しい、普遍性(universal→universality)を兼ね備えた場所(と言うよりも、人間関係)であらねばならない。事実、そのような人間関係の中から産み出された、相互扶助の仕組として、いわゆるギルド(同業団体)の一つとして、ヨーロッパの中世に現在の、君や僕が大学(ユニヴァーシティー)と呼んでいる組織は誕生したのであり、そこでは教員と学生とが、お互いに対等の立場で、協同組合を形成しているのが本来の姿であった。

言い換えれば、仮に君が結果的に、本意(→「本意入学」)であれ不本意(→「不本意入学」)であれ、和歌山大学(Wakayama University? University of Wakayama?)という名の、特定の大学に入ったからと言って、そこで君は入学から卒業まで、ひたすら一箇所で過ごし、とじこもったり、ひきこもったり、要するに、じっとしている必要はないのであって、その気になれば、君は日本中(それどころか、世界中)の、相互扶助の仕組の中に飛び出していけば、よいのであり、すでに君は現実的に、そのような仕組の中に身を置いているのでもある。したがって、例えば君が和歌山駅や和歌山市駅から、時間的にも金銭的にも、余裕があるのなら、君は自由に日本中(それどころか、世界中)の大学へと、同業団体や協同組合の一員として、はるかに旅をすることが認められているのでもある。

と言う訳で、僕は今回も、君にアダム・スミスの話を聴いて貰(もら)いたい、と願っているけれども、しばらくは主として、彼が大学生であった頃の話を中心にしたい。そのためには、彼がスコットランドのグラスゴー大学に入った、1737年から話をスタートすることに、せざるをえないが、この年を私たちの国の年号に直すと、それは江戸時代の、元文二年に当たっていて、このブログ(第125回「経済学は、道徳的ですか?」)においても、すでに君に伝えておいたように、この当時の日本の将軍(すなわち、征夷大将軍)は「和歌山」に縁(ゆかり)の深い、徳川吉宗(とくがわ・よしむね)であり、この第八代将軍(「米将軍」)は延享二年(1745年)に息子の徳川家重(とくがわ・いえしげ)に将軍職を譲ってからも、いわゆる大御所(おおごしょ)としての権力を手中に収めていた次第。

また、彼(徳川吉宗→「暴れん坊」将軍?)が亡くなるのは、宝暦元年(1751年)のことであるけれども、それは逆に地球の裏側で、アダム・スミスが母校(グラスゴー大学)の道徳哲学(モラル・フィロソフィー)の教授になる時と、ちょうど重なり合っている。――要するに、このようにして一見、無関係な人間関係の中にさえ、いろいろ興味深い、因縁(インネン→直接的「因」+間接的「縁」)は見出されるのであって、そのような因縁の中から、ことによると君や僕は、結果的に人間性(humanity)の何たるかを推し測る、人文学(humanities)の頭の使い方を身に付けることも出来るのではあるまいか、と僕は至極、真面目(まじめ)に考えている。逆に言えば、そのような頭の使い方を締め出し、忘れることで、いかに君や僕の人間性は、ガリガリに痩せ細ってしまったのであろう。

実際、この「米将軍」(=「重農主義」将軍!)の生きていた日本と、その一方で、アダム・スミスの生きていたイギリス(ひいては、スコットランド)の間には、その世界史的な同時代性(contemporaneity)も然(さ)ることながら、そこには幾多の、奥深い繋がりが隠されているのではなかろうか......という邪(よこしま=横しま)な思いを、僕は常々、妄想のように抱いていて、そのことを君に、これから追い追い、彼(アダム・スミス)が大学に入学した年(1737年)を皮切りに話をしたい、と思うのであるが、おそらく君は僕と違い、いたって記憶力も健在であろうから、そもそも彼の生まれたのが1723年であることも、想い起こしてくれているのではあるまいか。この年は、私たちの国の年号に直すと、享保八年に当たっていて、まさしく「享保の改革」の酣(たけなわ=闌)の頃である。

と言い出すと、きっと君は不審な顔をして、僕が彼の大学生になった年を、目下の君や僕の教育制度に照らし合わせて、不用意にも、彼の中学生になった年と勘違いをしているのではなかろうか、と感じていると困るので、それほど僕の記憶力がアヤフヤではない証拠に、彼の伝記としては定評のある、ジョン・レーの『アダム・スミス伝』(大内兵衛・大内節子訳、1972年、岩波書店)を以下に抜き出し、書き写しておくことにしよう。なお、この伝記自体(Life of Adam Smith, by John Rae)は19世紀の末年(1895年)になって出版された、すでに今から百二十年も昔の伝記ではあるが、そもそも伝記(biography)が誰かの生(bios)を、その生活や人生に即して、ありありと描く(graphein)ことに主眼を置いているのであれば、どうして伝記に、古いとか、新しいとかの、差別があろう。

事実、これまた以前、このブログ(第126回「アダム・スミスと日本人」)において、僕が君に紹介をしておいた、あの『本邦アダム・スミス文献』の増訂版(1979年、東京大学出版会)によると、どうやら「アダム・スミスの数多い伝記のなかで、本書は文字どおり〔、〕その古典の座に〔、〕しっかりすわっているもの、と言うことができる」ようであり、この本が今後とも、このような「古典としての座を降りることはないであろう」とも述べられている。おまけに、この本の「訳者解題」に従えば、もともと「ひろく市民にも〔、〕よんでもらうための「伝記物」として書きあげ」られているのが、この本の「古典」であることの、理由であった由(よし)。その意味において、あくまで僕は専門家でもなく、専門家である必要もない立場であるから、この本を一人の「市民」として使い続けたい。

 

スミスがグラスゴー大学に入学したのは一七三七年の〔、〕むろん十月の学期はじめで、一七四〇年の春まで〔、〕ここにいた。当時〔、〕文科の履修課程は五学年にわたっていたから、スミスは学位をとるのに必要な課程を修了しなかったわけである。ここに三年通うあいだに、彼はラテン語、ギリシア語〔原文:ギリシャ語〕、数学、道徳哲学の授業を修了した。これらの学科を担当した三人の教授は非常にすぐれた人であり、この小さな西部の大学に〔、〕はるか遠い地方から学生をひきつけ、知的な活気を学園に溢れさせていた。〔中略〕この知的な覚醒は、主として三人の教授に負うものであった。

 

このような一節を読むと、どんなに小さな地方大学でも、そこに魅力的で個性的な「三人の教授」さえ、顔を揃えることが可能であれば、いつも「知的な活気」に満ちた「知的な覚醒」は成り立ち、多くの学生の押し寄せる場所となりうるのではないか知らん、という気がしてこないではない。なお、その「三人の教授」について、ジョン・レーの『アダム・スミス伝』は次のように続けているので、ご参考までに。――「アレグザンダー・ダンロップ、ギリシア語教授。彼は学識、趣味ともに〔、〕すぐれた人物で、きわめて魅力ある教授法を駆使した。ロバート・シムソン、数学の教授。すこし常軌を逸してはいるが独創的な天才で、古代幾何学の再興者としてヨーロッパに名高い人物。そしてフランシス・ハチソン。偉大な独創力をもった思索家、無比の講義担当者、その点で抜群であった」。

さて、このようにして恵まれた、羨(うらや)ましい人間関係の中で、アダム・スミスの大学生としてのスタートは、切られたのであるが......ここまで話が進んできて、きっと君は胸の内に、釈然としない思いを抱いているに違いない。と言ったのは、前掲の引用の一節を、ごく素直に読むと、どうやらアダム・スミスは「五学年」の大学に入り、それにも拘らず、その大学を卒業することが叶わず、三学年の中途の段階で、そこから退学(中退!)をしてしまった、と見なさざるをえないからである。そして、それならば後年、このグラスゴー大学の教授となり、やがて晩年には、とうとう名誉総長にまで選出されることになる、彼の経歴(career)は、どのような道(carriera)を辿り、刻み出されたものなのであろう。それが一番、現時点の君にとっては、気になる点であったはずである。

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