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アダム・スミス 大学に通う ――「教養」の来た道(135) 天野雅郎

大学に通う、という行為が必ずしも、いつでも、どこでも、誰にでも、可能な行為である訳ではない(!)という点は、おそらく君も頭の中では、よく弁(わきま)えている点であったに違いない。そして、例えば君が自分自身の周囲を見回して、そこに当たり前のように「大学生」がいて、大学の授業が終わって家に帰っても、そこに当たり前のように「元大学生」である両親や、あるいは「前大学生」である兄姉の姿を目にすることが叶うからと言って、それは偶々(たまたま)君が、そのような人間関係の中に置かれている、と言うだけの話であり、そのことが君の、仮に幸運(→「ラッキー」!)を保証してくれていることではあっても、逆に君の幸福(→「ハッピー」!)を保証してくれている訳ではない、という点も同様に、君は頭の中では、よく弁えている点であったに違いない。

言い換えれば、それは僕が自分自身の周囲を見回して、そこに当然(→当前→あたりまえ)のように「元大学生」である父や母を発見することが出来ず、せいぜい「元大学生」である妹を発見するに過ぎず、言ってみれば、僕の生まれ、育った家の中の「大学生第一号」が他ならぬ、僕自身であることに比べてみれば、その違いは一目瞭然であろう。要するに、このようにして大学生になり、結果的に大学に通う、という行為が特別の、特定の誰かにのみ許された、限られた行為であることを、僕は自分や、みずからの両親を顧みれば、ごく容易に納得することが叶うのであるが、どうやら君の場合には、そのような納得が存外、難しい状況に置かれているらしい。でも、そのような君も多分、大学生であるためには、それ相応の時間と金銭が費やされざるをえないことは、はっきり分かるはず。

そうであれば、少なくとも君は大学生の間に、これまで費やされざるをえなかった、時間と金銭の埋め合わせ(compensation=相互計量→補償)をして、その幾分なりともを、自分自身の側に取り戻す必要があるのではなかろうか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。と言ったのは、昨今、逆に大学生を見ていると、そのような収支計算に対して実に無頓着な大学生が多く、それは僕の大学生であった頃に比べると、いつも僕が頭の中で、どうにかして自分の好きな、自分に相応しい仕事を見つけ出し、それを僕の、生計(living)を立てる道に繋げることは出来ないのか知らん......と考えていたのとは、好対照であったから。裏を返せば、そのような方法(method→methodos→進路探求)を考えるためにこそ、そもそも僕は大学に通っていた、と言っても過言ではないのである。

と言う訳で、今回も僕は君に、アダム・スミスの大学生であった時分の話を続けたい。が、そのためには最初に、彼が大学生になるのが1737年――要するに、彼が14歳の折の出来事であったことを、まず君と一緒に、確認を済ませておこう。14歳と言えば、目下の君や僕の教育制度では、中学校の二年生(!)の時分と言うことになり、前回も述べておいたように、それは僕の記憶間違いや、あるいは表記ミスにされてしまい兼ねない、いたって奇妙な事態なのであるけれども、この点に関しては、このブログの前々回(第133回「スコットランドの光の中で」)において、すでに君に紹介を済ませておいた、あの浜林正夫(はまばやし・まさお)と鈴木亮(すずき・りょう)の『アダム・スミス』(1989年、清水書院)の中に、以下のような都合の好い、叙述が含まれているから、ご参考までに。

 

スミスは、おそらく七歳でカーコーディ〔原文:カーコールディ〕の市立学校(バラ・スクール)に入学した。この学校は、六年制で、前期二年は「英語ないし国語学校」と呼ばれ、後期四年は「文法学校」と呼ばれていた。〔中略〕三〇人ほどの生徒を収容できる教室が二つしかない小さな学校であった〔中略〕。スミスは、本好きな勉強家で抜群の記憶力をもった目立った生徒であったが、身体の弱い〔、〕おとなしい子で、だれにでも親切な、みんなから好かれる子だったという。〔中略〕市立学校を卒業するとスミスは、一四歳でグラスゴー大学に進学した。〔中略〕一四歳といえば、いまの日本では中学生だが、当時は一二歳前後で大学に進学するのが普通だったから、スミスは、身体が弱かったために〔、〕おくれたらしい。

 

ちなみに、この市立学校で教えられたのが、まず「英語ないし国語」とあるのは、繰り返すまでもなく、イングランド語(English)とスコットランド語(Scottish)のことであり、このようにして当世風に言えば、小学校に入った段階から、スコットランドでは早期教育として、外国語(foreign language)である英語(イングリッシュ)の学習がスタートを切ることになる次第。それどころか、その上に置かれている「文法学校」の「文法」とは、今度はラテン語の文法(grammar→grammatica)のことであり、その意味において、当時のスコットランドの小学生は、すでに小学校の卒業時点(12歳)で国語(national language? country language?)と英語(いわゆる「第一外国語」)とラテン語(いわゆる「第二外国語」)の、言ってみれば、三種類の言語の修得を課せられていた訳である。

もちろん、その内の英語が結果的に、アダム・スミスの生まれる16年前(1707年)に、イングランドとスコットランドの間に交わされた「連合法」(Acts of Union)によって成り立った、当時の「グレート・ブリテン王国」(Kingdom of Great Britain)の影響であることは、これまた前々回、このブログ(第133回「スコットランドの光の中で」)で君に、報告を済ませておいた点であるが、その影響を再度、有体(ありてい)に言えば、それは「経済的に進んだ豊かなイングランドと〔、〕経済的におくれた貧しいスコットランドとの合邦であって、イングランドの人びとには優越感を、スコットランドの人びとには屈辱感を」(同上)......それぞれ産み出しかねない状況の中で、その「優越感」と「屈辱感」を如実に表現しているのが、この英語(すなわち、イングランド語)でもあった。

このような事態は、これまで人類が延々と、繰り返し続けている事態でもあり、例えばヨーロッパでは、未開人や野蛮人を意味する「バーバリアン」(barbarian)という語が、そのまま具体的に、ギリシア語を喋れない人間(ギリシア語→barbaros)を指し示すことに始まっている。そして、そこから今度は、これがローマ帝国の公用語であるラテン語(Latin)を喋れない人間となり、この語が元来、単にローマの周辺の、ある特定の地方(Latium)の方言(!)であったにも拘らず、やがて中世にはキリスト教会(=ローマ・カトリック教会)の公用語となり、その教会の首長(=ローマ教皇)によって認可を受けた、すべての大学の公用語となり、アダム・スミスの時代は疎(おろ)か、何と君や僕の生きている、この21世紀にまで、その影響力は消えていないのであるから恐ろしい。

したがって、アダム・スミスが子供の頃、当たり前のように英語や、さらにはラテン語の勉強をして(させられて?)いたのは、そのような英語やラテン語の勉強をしないと、彼自身が将来、文字どおりに「立身出世」の出来ない境遇に置かれていたからに他ならない。――また、その境遇に即して言えば、いかにも数奇な運命を辿り、君や僕はアダム・スミスの「同時代人」(contemporary=「はかなさ」の共有者)の役割を背負わされているのでもあって、自覚をすると、せざるとに拘らず、君や僕はアダム・スミスと同様、それぞれが「立身出世主義」(careerism)に乗っかった「立身出世主義者」(careerist)であることに、変わりはない。変わりがあるとすれば、それでも君や僕にとっては、どうして英語とラテン語なのか知らん......という抜き難い疑問を、払拭できないことであろう。

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