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アダム・スミス 大学を転じる ――「教養」の来た道(137) 天野雅郎

さて、今回も引き続き、アダム・スミスの学生時代の話である。が、そもそも彼の生きていた、18世紀のスコットランドには、全部で四つの大学しか存在しておらず、これを順次、創設年に即して並べてみると、1411年のセント・アンドルーズ大学、1451年のグラスゴー大学、1494年のアバディーン大学、1582年のエディンバラ大学となる。したがって、前の三つは揃って、15世紀(要するに、中世最末期)の大学であり、これを認可したのがローマ教皇である点も、そこに置かれていたのが当初、神学部であった点も共通している。これに対して、最後のエディンバラ大学だけは、16世紀(要するに、近代最初期)になってから、新たに設立された大学であり、その分、この大学は国王の勅許状によって誕生した、当時としては珍しい、いわゆる国立大学(national university)であった次第。

なお、この四つの大学に、イングランドのオックスフォード大学(1167年創設)とケンブリッジ大学(1209年創設)を加えて、イギリス全体では「エインシェント・ユニヴァーシティー」(ancient university)という呼称があるが、これは当然、時代区分の「古代」を指し示しているのではなく、イギリスでは旧来の、由緒のある大学という意味である。事実、この二つの大学を上回る大学としては、ヨーロッパにおける最古の大学と目されている、イタリアのボローニャ大学(11世紀創設)とフランスのパリ大学(12世紀創設)があるのみであって、前者であれば、そこにダンテやペトラルカや、コペルニクスやガリレイが在籍し、後者であれば、そこでアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスが教鞭を執っていた、という......唖然とせざるをえない話であるので、僕も困ってしまう。

その点、少なくともスコットランドの大学は、いちばん古いセント・アンドルーズ大学でも、せいぜい15世紀の初頭に遡るのが限界であって、それは見方を変えれば、15世紀の後半以降に誕生した、グラスゴー大学もアバディーン大学も、いわんやエディンバラ大学は、はなはだ近代的な性格と使命を持った大学であった、と見なしうるであろう。なぜなら、これらの大学が姿を見せる背景には、いわゆる「ルネサンスの三大発明」とヨーロッパが位置づけ、そこから君や僕の生きている、この近代(modern times=現代)という時代がスタートを切ることになる、火砲(すなわち、火薬)と羅針盤と活版印刷が出揃い、例えばグーテンベルクが、この印刷技術でカレンダーや聖書を、ちょうど刊行する頃に、アダム・スミスの母校のグラスゴー大学は、その産声を上げることになるからである。

ちなみに、この大学の創設された、1582年は私たちの国の年号に直すと、天正十年となって、あの「本能寺の変」が起き、織田信長(おだ・のぶなが)から明智光秀(あけち・みつひで)へと、さらに羽柴秀吉(はしば・ひでよし)へと、めまぐるしく権力の中心が移行した、その意味においては、日本史の最重要の転回点であったことになる。が、それは同時に、遠く地球の裏側の、ヨーロッパにおいても、それまで使われていた「ユリウス暦」(Julian Calendar→Julius Caesar)――何と、紀元前45年以来、実に1600年以上に亘って用いられていた「シーザー暦」が廃止され、目下、君や僕が結果的に、これを使って(使わされて?)いる「グレゴリオ暦」(Gregorian Calendar)へと、まさしくヨーロッパの時間の観念が、とてつもない変動を経験した一年であったことにもなるのである。

もっとも、このような変動の波がイギリスにまで押し寄せるのは、ローマ教皇(グレゴリウス13世)の制定からは百七十年を隔てた、1751年のことであって、この時、ようやく先刻の「改暦」(calendar reform=「カレンダー」改革)がイギリスでも実施され、旧暦(Old Style Dates→OS)の「ユリウス暦」は廃止され、新暦(New Style Dates→NS)の「グレゴリオ暦」が採用されるに至っている。そして、それは私たちの国の歴史(旧暦:明治五年一二月三日→新暦:明治六年一月一日)にも似て、それに先立つ百二十年前のイギリスで、いわゆる「文明開化」(civilization and enlightenment)の波が押し寄せていたことの、明白な証拠であった訳であり、興味深いことに、そのような「都市化」と「啓蒙化」の渦の中に、アダム・スミスの母校への復帰は果たされることになるのである。

けれども、その間には十年半にも及ぶ、彼自身の「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(ゲーテ)が挟まれていることも、忘れられてはならない点であろう。すなわち、この「修業時代」(Lehrjahre=見習期間)は前回、僕が君に報告を済ませておいた、1740年6月の、グラスゴー大学からオックスフォード大学への転学、と言うよりも、進学から始まっている。詳しく言うと、この時、アダム・スミスは「ジョン・スネル基金」という、いわゆる奨学金制度(scholarship=特待生資格)を利用して......あの「貧しいスコットランド」から「豊かなイングランド」への、その名の通りの「馬上の人」となるのであり、これ以降、1746年8月に、彼がオックスフォード大学を退学(!)するまでの間、その「ベリオール・カレッジ」(Balliol College)の学生として六年余りを過ごすことになる。

言い換えれば、それは君や僕の、ちょうど大学生の頃と重なり合っており、この段階に至って、ようやく君や僕は年齢的に、アダム・スミスを一人の、ほとんど同じ「大学生」(university student→骨を折る人)として、彼の苦労や苦痛や、苦難を受け止めることが、できるのであって、それを文字どおりの「同感」(sympathy=共苦)の目で、見つめることも可能になるのである。――が、その前に、君や僕はアダム・スミスが「貧しいスコットランド」のグラスゴー大学を離れるに当たり、それが彼にとっては反対に、どれほど豊かな人間関係と、刺激に満ちた教育の場であったのかを、ここではフランシス・ハチソン(Francis Hutcheson)との師弟関係に即して、振り返っておくことにしよう。引用は、今回は再度、ジョン・レーの『アダム・スミス伝』(1972年、岩波書店)からである。

 

彼がグラスゴーでうけた影響のうちで〔、〕もっとも有力かつ永続的であったのは、いうまでもなくハチソンの〔、〕それであった。〔中略〕まことに〔、〕この人ほど、彼の心をよび醒まし〔、〕その思想を方向づけた人は、教育者にも著述家にも〔、〕ほかにはなかった。〔中略〕もし彼が誰かの弟子であるというならば、むろんハチソンの弟子である。ハチソンというのは、まさしく、青年の思想を刺激し〔、〕それを作りあげるに適した型の人間であった。彼は、第一に、およそ大学教授のなかで〔、〕もっとも印象の深い講義をおこなった一人であった。

 

その講義(lecture→lectura=読書!)が、どのような講義であったのかを、ジョン・レーは下記のように補足しているので、ご参考までに。なお、このようにして大学の講義が、それぞれの時代の「国際語」(international language)で営まれるのは、そもそも大学が普遍的(universal)な、知識や技能の行き交う場である以上は、当然の事態である。けれども、そのような普遍性(universality)を一方的に、一面的な「グローバリズム」(globalism)の網の目の中で捉え、ある特定の言語のみを地球語(global language)や世界語(world language)や、あるいは「リンガ・フランカ」(lingua franca)と称するのは、いかがなものであろう。裏を返せば、そのような態度に反発し、アダム・スミスを始めとする、当時の若者に絶大な影響を及ぼしたのが、フランシス・ハチソンであった。

 

グラスゴーの教授で、ラテン語で講義することをやめて自国語でやったのは彼が最初であった。しかも彼は講義にはノートをもたず、大いに自由かつ生気撥剌と語った。しかも学生を鼓舞したのは彼の雄弁だけではなく、彼の思想それ自体でもあった。何事であれ、彼は〔、〕そのふれるものを一種の新鮮さと断固たる創意をもって〔、〕とり扱ったが、それは〔、〕もっとも愚鈍なものにでも何事かを考えさせたにちがいないようなものであった。また彼は、それを〔、〕さわやかな知的自由の精神をもっても扱ったので、それを呼吸することは青年にとっては心の力ともなり生命ともなったのである。

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