ホームメッセージアダム・スミス 懐郷の歌 ――「教養」の来た道(138) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

アダム・スミス 懐郷の歌 ――「教養」の来た道(138) 天野雅郎

以前、このブログ(第133回「スコットランドの光の中で」)において、僕は君に、スコットランド(Scotland)と聞いて、まず何を最初に想い起こすのであろう、と訊(たず)ねたことがあったけれども、その時は「タータン・チェック」の「キルト」の話や、あるいは「スコッチ・ウイスキー」の話に、話の花が咲いてしまい、すっかり君に伝えるのを忘れていた、スコットランドと日本人(要するに、君や僕)との深い繋がりについて、今回は話をしておくことにしたい。――と言ったのは、実は僕が「スコッチ・ウイスキー」を飲むよりも、はるかに以前から、また「タータン・チェック」の「キルト」のシャツを着るよりも、はるかに以前から、知らない間に僕の中に入り込み、ほとんど僕の血肉であるかのように感じていた、懐かしいスコットランドが、僕の中にはあったからである。

 

夕空(ゆうぞら)はれて あきかぜふき

つきかげ落ちて 鈴虫(すずむし)なく

おもえば遠し 故郷(こきょう)のそら

ああ わが父母(ちちはは) いかにおわす

 

引用は、岩波文庫版の『日本唱歌集』(1958年)に拠(よ)った。......と書くだけで、この「唱歌」が君も、あの『故郷の空』の歌い出しであることに、きっと気が付いてくれているに違いない。残念ながら、岩波文庫版の表記は「新仮名遣い」(=現代仮名遣い)に変わっていて、いささか気分を損なわれてしまうのは遺憾(イカン)であるが、この「唱歌」自体は元来、明治二十一年(1888年)に中央堂から刊行された、大和田建樹(おおわだ・たけき)と奥好義(おく・よしいさ)の編集した『明治唱歌』(第一集)に収められていたのが最初である。この二人は、どちらも安政四年(1857年)の生まれであり、前者が作詞家の役目を、後者が作曲家の役目を、それぞれ日本の音楽教育の草分けの時期において果たしている。したがって、この『故郷の空』も当然、大和田建樹の作詩である。

ただし、岩波文庫版の注釈を踏まえれば、この『故郷の空』の「原曲はスコットランドの民謡(Comin'Through the Rye)で、原曲のリズムが日本語に合うように変更されているが、それは『明治唱歌』の編集者〔、〕奥好義がおこなった改編と推定される」由(よし)。とは言っても、変更されているのは曲のみならず、詞も同じであり、この「原曲」がスコットランドで、例の「国民詩人」のロバート・バーンズ(Robert Burns)によって歌われた時、それは何と、1790年代のことであり、私たちの国の年号に直せば、寛政年間に当たっているけれども、この「原曲」自体は原題(『ライ麦畑で出逢ったら』)の通りに、いわゆる「春歌」(すなわち、猥歌)であった次第。――「誰かさんと誰かさんが麦畑/チュッチュチュッチュしている/いいじゃないか......❤」(ザ・ドリフターズ!)

と、この歌(『誰かさんと誰かさん』)が流行(はや)った年(1970年)には、まだ僕は中学生(^^;)に過ぎなかったのであるが、その時分(ジブン)の自分(ジブン)のことも、ふと想い起こしながら、そこから今度は、さらに二十年ばかりを遡って、僕はサリンジャー(Jerome David Salinger)が1951年に発表した、君も知っているであろう『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye)に、話を移したいのは山々(やまやま)である。が、そのような道草を食っていると、お仕舞いには今回も表題になっている、アダム・スミスのことが頭から、すっかり抜け落ちて仕舞い兼ねないから、恐ろしい。とは言っても、どうやら忘れようにも、忘れられないものが、君にも僕にも、アダム・スミスにも、ひいては『万葉集』の防人(さきもり)にも、やはり残されているようである。

 

忘(わす)らむて

野(の)行(ゆ)き山(やま)行き

我(われ)来(く)れど

我(わ)が父母(ちちはは)は

忘れせぬかも (商長首麻呂、巻第二十、4344)

 

さて、このようにして前回、すでに君に伝えておいたように、ふたたびアダム・スミスが「豊かなイングランド」から「貧しいスコットランド」への、その名の通りの「馬上の人」となるのは、1746年のことであり、これまた私たちの国の年号に直すと、永享三年のことになる。この間――と言ったのは、もちろん彼が、オックスフォード大学の学生であった、1740年以降のことであるが、彼は17歳から23歳まで、現在の君や僕に即して言えば、高校二年生の後半から大学院の一年生の前半まで、オックスフォード大学の「ベリオール・カレッジ」の学生であった訳である。そして、その間、彼は一度の「旅行」に出掛けることもなく、ひたすら「思索と読書」という「最善の形の教育」(!)に明け暮れるのであり、その挙句には、とうとう「健康を〔、〕そこねてしまったほどであった」。

と、今回も僕は、ジョン・レーの『アダム・スミス伝』(1972年、岩波書店)に沿う形で、君に話を聴いて貰(もら)っているけれども、このような彼の苦学生ぶりや、猛烈な勉強家ぶりを知らされると、どうして彼が足掛け七年もの歳月を費やして、とうとう最終的に、そのオックスフォード大学を離れることになってしまったのであろう、という点が差し当たり、何よりも不審に感じられる点ではなかろうか。もっとも、結果的に「彼が学士号をとった」ことは間違いがないようであり、それが「ドミヌス」(Dominus)という肩書であれ、あるいは「バチェラー・オブ・アーツ」(Bachelor of Arts)という肩書であれ、いずれにしても彼が「正式に卒業生となるのに必要な〔、〕なにかの手続きを怠ったのかもしれない」という程度の推測を、君や僕は、することが出来るだけなのである。

ともかく、このようにして彼は公的なオックスフォード大学の「卒業生名簿」には、その名を留めることもなく、世界で有数の、この由緒(ユウショ→ユイショ)ある大学を後(あと=跡)にすることになる。......と言い出すと、それを君は勿体(モッタイ=物体)ない、何とも愚かな、取り返しようの付かない不始末を、この時、アダム・スミスは仕出かしてしまったのであろう、と考える側であろうか。それとも、そのような卒業生資格など、あらゆる世の中の資格(ライセンス)と同様、紙切れ一枚のものに過ぎず、どのような免許(license)も資格(qualification)も証明(certification)も、それは人間の、ことごとく上辺の体面や体裁を取り繕(つくろ)うものに過ぎず、その人間の真底(しんそこ=心底)の、知識や技能を保証するものでは決してない、と考える側であろうか。

どちらでも構わないけれども、少なくともアダム・スミスがオックスフォード大学を離れることになった、理由の最たるものに、どうやらオックスフォード大学の腐敗や堕落が主要な原因になっていたらしい、という事実を、君や僕は押さえておく必要がある。裏を返せば、そのような「学問の一大暗黒期」に遭遇することで、逆に前述の通り、アダム・スミスは一度の「旅行」を楽しむこともなく、ひたすら「思索と読書」という「最善の形の教育」に精を出したのであり、それは単に、彼の「思索」好きや「読書」好きや、いわゆる「セルフ・エデュケーション」(self-education=自己教育)という名で呼ばれる、教育本来の形を彼が好み、それを実行する能力や資質や勇気を兼ね備えていたことで、この若い日の、彼の決断は為されたのではない点も、ここに銘記しておくべきであろう。

 

スミスがオックスフォード〔原文:オクスフォード〕にいた時代は、学問の一大暗黒期であった。この暗黒の時代は〔、〕ほぼ世紀の全般にわたった。〔中略〕スミスの記述〔『国富論』〕によれば、「大学という団体は学問を教えるのが仕事であるが」、当時ここで学問を教えられた者は一人もなく、「教えを受ける適切な方法」さえ見つけうる者はなかった。講義担当者は講義をやめていた。〔中略〕彼らは〔、〕その個人的な勤勉さに関係なく給料をもらい、責任は〔、〕お互いにもつだけであったから、「誰でも、自分がなまけるのを大目にみてもらえるならば、隣人がどんなになまけても黙っていた」。その結果、改良はすべて嫌われ、新思想には無関心となり、ついには、富裕で基金の多い大学は、「打破された学説や時代おくれの偏見が、世界の隅々から追いだされてきて、安全にその身を隠す奥の院」と化してしまった。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University