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山のビブリオグラフィー(第三話) ――「教養」の来た道(142) 天野雅郎

君や僕の住んでいる、この日本(ニホン? ニッポン?)という国が、いつの頃から「日本」という名で呼ばれて、ひいては、それが「国号」として用いられるようになったのかは、残念ながら、よく分かっていない。例えば――僕が今、ページを捲(めく)っている、吉村武彦(よしむら・たけひこ)の『古代王権の展開』(1991年、集英社版「日本の歴史」③)によると、どうやら「この国号が七世紀後半に成立した可能性は大きい」という辺りまでは、明言できるようであって、同時に「その成立は、天皇号の成立や律令制の形成と密接な関係がある」ことも、したがって、このような「国号意識をもったのは、政府支配者層で」あり、決して当時の、君や僕のような一般の、いわゆる庶民(ショミン=諸民)ではなかったことも、当然のことながら、はっきり君や僕は、認めておく必要がある。

ちなみに、この日本という国号を音読し、漢字本来の外国音(!)で読むと、中国南方音の呉音では「ニチホン」(すなわち、ニッポン)となるけれども、中国北方音の漢音では「ジツホン」(すなわち、ジッポン)となる。と言うことは、この二つの読み方の、どちらの読み方を、当時の日本人は採用していたのであろう......ということ自体が、実は大問題なのである。が、現在でも君や僕は、いたって曖昧(適当?)に、この国号をニッポンとも、あるいはニホンとも、その場、その場に応じて使い分けている訳であって、それこそ「日本橋と書いても、東京ではニホン橋で、大阪ではニッポン橋」となるのが実情で、このような使い分けは「すでに中世でも両様の読み方があり、法的に規制して画一化するようなものではない」と言える辺りが、まさしく「日本の特徴」なのであろう(同上)。

ただし、このような曖昧、模糊(モコ→糢糊)とした推測を、もう少しだけ、あやふやな状態から、あやふやではない状態にしておくと、ここでは吉田孝(よしだ・たかし)が『日本の誕生』(1997年、岩波新書)において、この「国号が正式に定められたのは、史料的に確認されるかぎりでは、六七四年から七〇一年の間で」あり、おそらく「制度的には〔中略〕飛鳥浄御原令〔あすか・きよみはら・りょう→六八九年施行〕で「日本」が国号とされていたのではないだろうか」という推測を、僕は君に、紹介しておこう。と言い出すと、この飛鳥浄御原の宮(みや=御屋)で即位をしたのが、あの天武(テンム)天皇であり、その没後、引き続いて即位をしたのが、皇后の鸕野讚良皇女(うの・の・さらら・の・ひめみこ)であったことを、きっと君は、すでに了解してくれているに違いない。

そして、この皇后が即位をし、天皇となった際の称号が、いわゆる持統(ジトウ)であったことも、僕は前回、君に伝えておいた通りである。もっとも、このようにして親しげに、あたかも知り合いであるかのような口を(^^;)僕は利(き)いているけれども、このような「天皇」や「皇后」という呼び名自体が、それまでの大王(音読→ダイオウ、訓読→おおきみ)や大后(音読→ダイコウ、訓読→おおきさき)に替わり、おそらく「日本」という国号と同時に、先刻の飛鳥浄御原令で定められたものであり、その点において、初代の天皇は没後の、天武であったことになり、初代の皇后は逆に、もう天皇となっている、持統であったことになる。――と、このような複雑な事情も含めて、君や僕は目下、君や僕が暮らしている、この「日本」という国の成り立ちを、振り返らなくてはならない。

ところで、このようにして天武から持統へと、拵(こしら)え上げられたばかりの「天皇」や「皇后」や、何よりも「日本」という国号が引き継がれた折、はなはだ興味深いことに、その「天皇(すめらみこと)の崩(かむあが)りましし時に、大后(おほきさき)の作らす歌」と題する長歌が、前回と同様、今回も『万葉集』(巻第二、159)には収められていて、その後には一転、今度は「太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌(おほみうた)」と題する、二首の短歌(160、161)が並べられている。作者は、その時々の立場に従えば、前者が皇后(厳密に言えば、大后)である時の、後者が天皇である時の、それぞれ持統であることに、変わりはないのであるが、それを「皇女」から「皇后」へと、ひいては「天皇」へと、その名を改めた一人の女性であることを踏まえれば、感慨は深い。

 

やすみしし/我(わ)が大君(おほきみ)の 〔大君よ、あなたは......今でも〕

夕(ゆふ)されば/見(め)したまふらし 〔夕方になると、ご覧になっているに違いない〕

明け来れば/問(と)ひたまふらし 〔朝方になると、お訪ねになっているに違いない〕

神岳(かみおか)の/山の黄葉(もみち)を 〔あの神岳の、山の黄葉を〕

今日(けふ)もかも/問ひたまはまし 〔きっと今日も、お訪ねになっているであろう〕

明日(あす)もかも/見(め)したまはまし 〔きっと明日も、ご覧になっているであろう〕

その山を/振(ふ)り放(さ)け見(み)つつ 〔その山を、はるかに仰ぎながら〕

夕されば/あやに哀しみ 〔夕方になると、なぜか哀しく〕

明け来れば/うらさび暮らし 〔朝方になると、いつも寂しく〕

あらたへの/衣の袖(そで)は/乾(ふ)る時も無し 〔私の喪服の袖は、いっこうに乾かない〕

 

このようにして、男の側は死者として、一方、女の側は生者として、いわゆる幽明(ユウメイ)境(さかい=界)を異にし、処(ところ)を隔てているにも拘らず、この二人の間には朝な夕な、お互いの存在を確認し合うべく、文字どおりの恋(こひ→孤悲=孤〔ひと〕り悲しむ!)の歌が、歌(うた=訴)われることになる。――とは言っても、もちろん、その歌を歌うことを許されているのは生者の側であり、死者の側ではなく、その役割分担に即して言えば、この恋を恋(こひ→故非=故〔もと〕は非〔しか〕らず!)として成り立たせる上では、そこに不可避的に音信不通の、まさしく死者が前提とされ、必要とされている訳であり、そのためには何と、二年二箇月を凌(しの)ぐ、その名の通りの殯宮(音読→ヒンキュウ、訓読→もがりのみや、あらきのみや)すら、造営されていた。

そのような殯宮の中で、おそらく女(すなわち、持統天皇)は、男(すなわち、天武天皇)の、文字どおりに「蛆(うじ)集(たか)れ、こころきて」(『古事記』上巻)......朽ち果てた姿を目にしたのではあるまいか、と推測しているのは、前回と同様、伊藤博(いとう・はく)の『萬葉集釋注(一)』(1995年、集英社)であるけれども、それならば反対に、そのような恐怖に戦(おのの=慄)いて、伊耶那岐(いざなき)の命(みこと)が伊耶那美(いざなみ)の命を置き去りにして、ほうほう(=這う這う)の体(てい)で逃げ出した、あの「黄泉(よみ)の国」の物語を、ここでは男と女の、逆転した立場で読み直すことも、可能であろうし、その時には「黄泉の国」も、より明瞭に「黄泉の坂」の向こうに聳(そび)え立つ、暗く深い、山の姿を取って、イメージされてくるに違いない。

その意味において、そのような山(やま)が闇(やみ)と通じ合い、ひいては黄泉(よみ=夜見)と通じ合う、あやしく、あやうい響きを伴っていたのは、偶然ではあるまい。したがって、僕が前回、君に紹介を済ませておいた、例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「山」の第四の語釈(「墓場。墳墓。山陵。葬送地。みやま」)にしても、それは単に、実際に「墓地が、多く山中、山麓に営まれたところから」生じた語義ではなく、そこでは山が、もっと人間の深部で、人間と響き合う、ある種の「神秘体験」の場でもありえたことに、理由があるのではなかろうか。とは言っても、そのことに関して、はっきりした説明の根拠が、僕にある訳では、さらさら無く、この場では以下、いたって神秘的(mysterious)な、前掲の持統天皇の短歌を二首、次に掲げておくことで、また次回。

 

燃(も)ゆる火も/取りて包みて/袋(ふくろ→原文:福路)には/入(い)るとは言わずやも/智男雲〔※〕

北山(きたやま→原文:向南山)に/たなびく雲の/青雲(あをくも)の/星(ほし)離(はな)れ去(ゆ)き/月を離れて

 

〔※〕この歌は『万葉集』の、いわゆる「難訓歌」の一つであり、これまで第五句の「智男雲」に対して、決まった訓読の仕方が存在していない。伊藤博の『萬葉集釋注(一)』の補注は、次の通り。――「語義未詳。「知曰男雲」の誤字と見て、シルトイハナクモ(知ると言はなくも)〔賀茂真淵『万葉考』〕、「面知日男雲」の誤字と見て、アハムヒヲクモ(逢はむ日招(を)くも)〔澤瀉久孝『万葉集注釈』〕と訓む説などがあるが、いずれも確かではない」。

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