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山のビブリオグラフィー(第四話) ――「教養」の来た道(143) 天野雅郎

前回の末尾で、たまたま僕は「神秘体験」という語を使ってしまったけれども、この語自体を、それほど僕は神秘的(mysterious)なものだとは考えていない。なにしろ、この語に例えば、英語で mystical experience という言い回しを宛がうと、それこそ超常現象(paranormal phenomenon)のように不可思議な、要するに、反科学的な体験が想い起こされてしまい、この場で僕が君に伝えたいと願っている、山と人間との通常の、当然の関係が、隠蔽(インペイ)されてしまうことにもなりかねないからである。言い換えれば、それが科学的(scientific)であれ、反科学的(unscientific)であれ、もともと山は、山として、そこに科学(サイエンス)とは無関係に、非科学的(nonscientific)に、存在してきたのであり、存在しているのであり、これからも当分は、存在していくであろう。

ただし、例えば前回の最後に、僕が君に紹介しておいた、あの持統(ジトウ)天皇の歌(『万葉集』巻第二、161)――「北山(きたやま)に/たなびく雲の/青雲(あをくも)の/星(ほし)離(はな)れ去(ゆ)き/月を離れて」の中で、この「青雲」が天武(テンム)天皇を、あるいは「月」が持統天皇を、そして「星」が......この二人の間に生まれた、草壁(くさかべ)を始めとする皇子(みこ=御子)や、皇女(ひめみこ=姫御子)のことを指し示しているとしても、そのことで単純に、この歌を文学的な、ひいては宗教的な、いわゆる古代人の素朴な心情が産み出した歌である、と決め付けるのは早計であり、そのように決め付けること自体、実は君や僕が現在、科学(science=知識)と呼んでいる人間の能力からは、もっとも離れた、隔たった所に存在する、頭の使い方なのである。

事実、ここでも今回、伊藤博(いとう・はく)の『萬葉集釋注(一)』(1995年、集英社)の助けを借りると、この歌が「当時の天文知識を踏まえた歌」であり、その背景としては「天武・持統両帝とも天文暦法に熱心で、それを制度化した天皇として名高い」ことが述べられているし、そこから「天武天皇は占星台を設け(天武四年〈六七五〉一月)、持統天皇は〔、〕これまでの元嘉暦(げんかれき)のほかに儀鳳暦(ぎほうれき)を用いさせている(持統四年〈六九〇〉十一月)」ことも付け加えられている。すなわち、このようにして人間は、いつの時代にも決まって、その時代に固有の科学を思い付き、考え出し、それにも拘らず、その科学を政治の力で、まさしく「制度化」(systematization)をしてきた訳であり、その限りにおいて、科学を逆説的にも、信じ込んできたのである。

と言う訳で、僕個人は日本人が、例えば山(訓読→やま、音読→サン・セン)と宗教的な、もしくは文学的な付き合い方を、まず始める段階があって、それが次第に政治的な、もしくは科学的な付き合い方に変化をした、と推測すること自体を、眉唾(まゆつば)に近いものと感じている。――と言ったのは、たしかに政治も科学も、この「日本」という国にとっては、文字どおりの舶来品であって、それは遠く、海の彼方(かなた)から此方(こなた)へと、輸入をされたものに他ならないけれども、それならば等しく、もう一方の宗教も文学も、まったく同じ時期に、古代であれ、中世であれ、近代であれ、いずれも海彼(カイヒ)から私たちの国へと、持ち込まれたのが実情であり、そこに差別的な、ある種の「近親憎悪」にも似た感情を持ち込むのは、いわゆる近代人の習性に過ぎない。

その意味において、僕が前回、君に伝えておいた、まさしく「日本」という国号の成立の時期(すなわち、7世紀後半)は、このような日本人の、山に対する思考態度(=知性)や、あるいは評価基準(=感情)や、さらには行動様式(=意志)が、それまでの時代とは大きく、変化をした時期の代表であって、それは中世であれば、いわゆる元寇(ゲンコウ)の起きる、鎌倉時代(=13世紀後半)に相当するであろうし、近代であれば、当然、それは明治時代(=19世紀後半)に相当するであろう。......と、このようにして振り返ると、どうやら私たちの国の歴史において、大きく日本人の、山との関わり合い方は三段階の、三種類の変化を、奇(く)しくも六百年刻みで、経験したことになるのではあるまいか。――と言うのが、このブログを書くに当たっての、目下の僕の、見取り図になる。

その、さしあたっての見取り図に従えば、例えば前回、僕が君に伝えておいた、あの吉田孝(よしだ・たかし)の『日本の誕生』(1997年、岩波新書)において、そもそも「日本」という「国号が正式に定められたのは、史料的に確認されるかぎりでは、六七四年から七〇一年の間で」あり、おそらく「制度的には〔中略〕飛鳥浄御原令〔あすか・きよみはら・りょう→六八九年施行〕で「日本」が国号とされていたのではないだろうか」という推測が、なされていたことを、君と僕は再度、確認しておこう。そして、その際の上限である「六七四年」が、分かりやすく言えば、天武天皇の即位の次の年に当たり、下限である「七〇一年」(要するに、大宝元年)が、この年に制定された「大宝律令」の中で、すでに「日本」という国号が使用済みであることを、一番目の根拠にしていることも。

なお、二番目の根拠として挙げられているのは、この同じ年に中国へと向かった、いわゆる遣唐使が出来たてのホヤホヤの、この「日本」という国号を呼称している点である。この点については、これまた『万葉集』(巻第一、63)の中に、あの山上憶良(やまのうえ・の・おくら)が作った、この歌集において唯一、海彼で詠まれた歌(「大唐に在る時に、本郷を憶ひて作る歌」)が含まれているので、ご参照を。おそらく、この歌自体は遣唐使の役目を終え、大任を果たした一行が、中国から日本へと帰る折、その「最後の宴の席などで公表された」歌(伊藤博『萬葉集釋注(一)』)であったろうが、この歌を成り立たせているのは、文字どおりに「大唐」(音読→ダイトウ、訓読→もろこし)から「本郷」(音読→ホンキョウ、訓読→もとつくに)へと向かう、懐郷の眼差しでもあった。

それにしても、このようにして古代から......中世へと、近代へと、私たちの国が繰り返してきた、すさまじいばかりの「日本」への執着とは、どのような理由を持った、どのような心情が産み出してきたものなのであろう。そのことを抜きにして、今でも君や僕が、この「日本」という国に思いを巡らし、その思いを表現することは出来そうにない。その意味において、この歌の中に姿を見せる「日本」という表記に対し、これを「ニホン」や「ニッポン」や、あるいは「ジッポン」と読むのは不適切であろうし、不謹慎でもあろうが、それならば逆に、この表記を「やまと」と読むことで、はたして君や僕は山上憶良と同じ、懐郷の眼差しを手に入れることが叶うのであろうか。むしろ、その際にこそ、君や僕の目には、何かが覆い隠されてしまっていることも、忘れてはならないはずである。

 

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早く日本(やまと)へ

大伴(おほとも)の

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