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山のビブリオグラフィー(第七話) ――「教養」の来た道(146) 天野雅郎

前々回の、その又、前々回の、さらに前々回から、突然、僕は山の話を始めている。いろいろ理由(reason→原因、根拠、理性etc.)はあるけれども、それを逐一、君に説明し出すと、話が相当に、ややこしくなる。そうではなくても、僕は普段から、ややこしい話を君に聴いて貰(もら)っている訳であり、それは翻れば、君や僕の生きている時代が余りにも、ややこしい時代であり、そうであるからこそ、その「ややこしさ」を君や僕は早々に放り出し、放り投げ、その「ややこしさ」から逃げ出してしまおうとする、そのような「ややこしさ」の放擲(ホウテキ)が結果的に、君や僕の「ややこしさ」を一層、複雑な「ややこしさ」にしているのではあるまいか。――と、このように言い繕(つくろ)っていること自体が、ややこしい言い回しにならざるをえないのであるから、始末が悪い。

ちなみに、このようにして僕の使っている、この「ややこしさ」という名詞や、その本(訓読→もと、音読→ホン)になっている、形容詞の「ややこしい」という語を、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で調べてみると、そこには「複雑である。こみいっている。混乱していて〔、〕わずらわしい」という語釈の後に、江戸時代の末年の滑稽本(『穴さがし心の内そと』)の用例が挙げられていて、そこには「どうで男といふものは、どこでも皆ややこしい事してくれるでゑな」という、実に絶妙な一文が引かれており、笑いを押さえるのに、一苦労である。だから......と言い出すと、それは飛躍以外の、何物でもないが、いつも世の中の「男」の口からは挙(こぞ)って、あの「山に行きたいなあ~❤」という、訳の分からない台詞(せりふ)が、飛び出し兼ねないのではなかろうか。

とは言っても、それを近代的(modern=現代的)な「登山」の話に、そのまま置き換えてしまいたい訳では、僕はなく、そうであるからこそ、このようにして「山のビブリオグラフィー」という書誌学(bibliography=参考文献一覧目録)の名を借りて、僕は君に古代の、さらには古代以前(超古代?)の、縄文時代の話や弥生時代の話や、ひいては『万葉集』の話を、してきた次第。そして、そのことを通じて、僕が君に伝えたかったのは、どうやら人間(と言うよりも、いわゆる日本人)は、このようにして古代も、中世も、近代も、それぞれの時代に、それぞれの場所で、あれこれ理由を探し出し、あれこれ山に登る算段を、付けてきたのではないか知らん、という点であり、それは単純に振り返れば、まさしく「日本」が「大和」(やまと)の、二重写しの語であったからに他なるまい。

二重写し――と言ったのは、いわゆるオーヴァーラップ(overlap)のことであり、今でも君や僕の目の前にある、山や川や、要するに、山川(サンセン)草木(ソウモク)は悉(ことごと=尽)く、このような追想や回想や、場合によっては幻想の、重なり合ったものとして、そこに姿を現(あらわ=露+顕)し、それが君や僕の目に、結果的に「風景」(landscape=土地形状)として、写し出されるのである。したがって、このような事態が通常、君や僕の目に意識され、自覚されることは稀(まれ)であっても、そうであるからこそ、そこには逆に根の深い、このような風景の成立要件が隠されていることを、君や僕は見逃すべきではない。その関わりにおいても、君や僕の周囲に山が満ち、山が溢れ、この国が「やまと」(山所・山処)の国であることは、いたって面倒な呪縛でもあった。

もっとも、そのような「やまと」が「大和」や、あるいは「倭」(音読→ワ、訓読→やまと)や「日本」に、二重写しにされるようになったのは、すでに君に伝えた通り、今から1300年余り前のことであるし、それ以降も、このような二重写しの仕方が万全に、十全に機能し続けてきた訳では、さらさら無いことも、君や僕は忘れてはならない。が、その一方で、この「日本」において山の占める割合(いわゆる「山地面積」)を、君や僕が子供の頃から、60%や70%を超える数字で学び、その上に、これを森や林の占める割合(いわゆる「森林面積」)と重なり合う形で、習うのであるから、結果的に君や僕は一度も、その豊かな森林や、広い山地を見聞したことがなく、それを実体験として、ほとんど知らないにも拘らず、知らない内に「日本」は、君や僕の中で「やまと」と化してしまっている。

ところで、先刻、僕が「ややこしい」の用例に挙げておいた、あの『穴さがし心の内そと』の作者(すなわち、戯作〔漢音→ギサク、呉音→ゲサク〕者)は、一荷堂半水(いっかどう・はんすい)と言って、当時の大阪の、流行作家(popular writer)であるけれども、この点からも窺えるように、もともと「ややこしい」や「ややこしさ」は関西弁であって、その起源を遡ると、どうやら京言葉の「ややこ」(稚児)にまで辿り着く語であったらしい。と言うことは、この語は本来、赤子(あかご)や緑児(みどりご)が泣き、ヒーヒーと喚(わめ)いている状態を、指し示す語であって、その「ややこ」の色は一体、赤なのか、緑なのか......と、このような「ややこしい」状態に陥っていることを、意味している訳であるが、その意味自体は、もっぱら関西人の、面倒臭さを表現する語である。

と言い出すと、仮に君が関西人であるのなら、きっと君は不服そうな顔をして、僕を睨(にら)み付けるに違いない。が、このような事態は別段、君や僕の感情(いわゆる、喜怒哀楽)の、すべての場面について、言えることなのではなかろうか。言い換えれば、君や僕が「ややこしい」のは、それは君や僕が関西という、この関(音読→カン、訓読→せき)の西(音読→サイ、訓読→にし)に住み、暮らしているからであり、裏を返せば、それは反対に関東という、関の東に君や僕が住み、暮らしていれば、そこには当然、関西とは異なる、違った面倒臭さが成り立ち、成り立たざるをえないのであって、そうであるからこそ、古来、多くの関西人が関の西から東へと、多くの関東人が関の東から西へと、それぞれの面倒臭さを逃れ、忘れるために、それぞれの関を、越えたのでもあったはず。

ところが、それにも拘らず、彼らは残念ながら(と言うよりも、当然ながら)困ったことに再び、また別の面倒臭さと出会うことになるのであり、そのこと自体が繰り返し、さまざまな文学や芸術や哲学の、源泉ともなりえた訳である。とは言っても、このような人間の行動自体は、あるいは感情自体は、おそらく人間に、共通のものであって、その意味において、いくら時代を異にしても、いくら場所を違(たが)えても、ある程度の普遍性は認められうるのではあるまいか。例えば、きっと君も、よく知っているに違いない、あのカール・ヘルマン・ブッセ(Karl Hermann Busse)の詩(Ue()ber den Bergen)を、上田敏(うえだ・びん)が「山のあなた」と訳し、それを明治三十八年(1905年)に『海潮音』に収めて後、そこから次々と、この詩が「やまと」の各地へと広まっていったように。

 

山のあなたの 空遠く

「幸」(さいはひ)住むと 人のいふ。

噫(あゝ)、われ ひとゝ尋(と)めゆきて、

涙さしぐみ、かへりきぬ。

山のあなたに なほ遠く

「幸」住むと 人のいふ。

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