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深田久彌論 ――「教養」の来た道(149) 天野雅郎

深田久彌(ふかだ・きゅうや)と聞いても、まず君は、この作家の名前を知っているのであろうか。おそらく、君が昨今、流行(はやり)の「山ガール」や、あるいは「山ボーイ」(?)ではない限り、この作家の名前を知らなくても当然であろう、と僕は思うけれども、このようなことを最初から言い出すと、逆に世間の「山好き」からは白い目で見られたり、それどころか非難嗷々(ゴウゴウ=囂々)の嵐に巻き込まれたりしかねないから、おそろしい。裏を返せば、それほど彼ら(「山ボーイ」)や彼女ら(「山ガール」)からは、この作家が生誕110年(厳密に言えば、112年)を過ぎた今になっても、かなりの知名度を誇っているのではなかろうか――と、これまた僕は思うけれども、それは僕のように「山ボーイ」でも、もちろん「山ガール」でもない人間の、臆測に過ぎないのであろうか。

もっとも、このような臆測を僕がしているのは、単なる「当て推量」では、ないのであって、その証拠に、目下、僕の手許には今年(2015年)の春に刊行されたばかりの「深田久彌作品集」が置かれており、その表題には何と、ここでも『拝啓 山ガール様』が宛がわれている。もちろん、明治三十六年(1903年)に生まれた深田久彌自身には、このようなハイカラ(high collar=高襟)な命名(ネーミング)は、無関係であるが、すでに「ハイカラ」という表現自体は、当時、この作家の生誕の時期と重なり合う形で、私たちの国で使われ始めている。言い換えれば、このようにして「物事が、西洋風で目新しいこと。また、そうした欧米風や都会風を気取ったり、追求したりするさま。また、その人」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)が登場する頃に、この作家は生まれ合わせたのである。

ちなみに、この『拝啓 山ガール様』は、廣済堂文庫(ルリエ)から出版されていて、その著者名にも「深田久弥」が宛がわれているけれども、底本になっているのは、ちょうど僕が大学生になった年(昭和49年→1974年)に、朝日新聞社から全12巻で刊行された、この作家の全集(『山の文学全集』)であり、それは突然、この作家が山梨県の茅ヶ岳(かやがたけ)に登山中、脳卒中を起こし、逝去を遂げてから、三年後に出版されたものである。享年六十八歳。......僕自身は、しつこいようであるが、まったく「山ボーイ」でも、いわんや「山ガール」でもないので、この『山の文学全集』に対して、一度も目を通したことがなく、今回も再度、このブログの表題に「深田久彌論」を、ぬけぬけと掲げることについては、それ相応の忸怩(ジクジ→深く恥じ入る)たる思いが、ない訳ではない。

とは言っても、僕が大学生であった頃には、いまだ1960年代の「空前の登山ブーム」の余韻が、あれこれ漂っていた時期であり、とうてい君には、信じ難い(unbelievable!)ことであろうが、あたかも「熱に〔、〕うかされたように人々は登山に雪崩〔なだれ〕をうち、巷〔ちまた〕では「三人寄れば山岳会」といわれた」時分の雰囲気が、細々と続いており、大学にも登山のための、クラブやサークルが生き残っていた頃であった(布川欣一『明解日本登山史』2015年、山と渓谷社)。したがって――と言い切るほどの、何の理由も根拠も、ないけれども、我が家の本棚には現在でも、その時期、購入した深田久彌の本が、あの『日本百名山』(1964年、新潮社)を始めとして、いろいろ並んでいる。それどころか昨今は、ついつい『山の文学全集』まで古本で買っちゃおうかな、と考えている始末。

と言う訳で、今回は深田久彌の、その『日本百名山』の中に、実は前回、僕が君に話を聴いて貰(もら)った、例の「常念岳」(じょうねんだけ)が含まれているので、これを以下、君に伝えておくことにしたい。と言い出すと、すでに君が『日本百名山』の読者であるのなら、この一節が臼井吉見(うすい・よしみ)の名前と共に始まっていることを、君は想い起こしてくれているに違いない。そして、そこには「常念を見よ!」と、毎週(月曜日)の朝礼で繰り返していた、あの「常念校長」のことも触れられているし、そこから十年余り前、この「常念岳」に「日本の登山家で最初に」登頂し、それを紀行文(『信州常念岳』)で紹介した、小島烏水(こじま・うすい)や、また、その十年近く前、外国人としては初めて、この山の頂に立った、ウォルター・ウェストンのことが述べられている。

彼らについては、また追って、僕は君に紹介をするけれども、要するに彼らが、このようにして日本の山々を巡り、山々に登り、まさしく「日本に〔、〕ようやく近代登山の時代が近づいてきた」時期、言い換えれば、日本人が「信仰のためでも生業や職務のためでもなく、遊び〔、〕あるいはスポーツとして山に登り、それを楽しみ、価値を見いだす活動」(布川欣一『明解日本登山史』)を、言ってみれば歴史上、はじめて経験し始めた時分に、ちょうど深田久彌も、あるいは臼井吉見も、生まれ合わせるのであり、その意味において、この二人が二年違いの、明治三十六年(1903年)と明治三十八年(1905年)に、それぞれ石川県と長野県の、ほかならぬ「山国」で誕生していることは、偶然ではないし、それは『日本百名山』の後記の表現を借りれば、ほかならぬ「日本」全体の経験でもあった。

 

日本は山国である。どこへ行っても山の見えない所はない。市や町や村を見おろす形のいい山が立っていて、そこの学校の校歌〔山並の/つらなる果てに/黒潮は~♪〕に必ず詠(よ)みこまれるといった風である。日本の国民は〔、〕たいてい山を見ながら育った。〔中略・改行〕日本人ほど山を崇(たっと)び〔、〕山に親しんだ国民は、世界に類がない。国を肇(はじ)めた昔から山に縁があり、どの芸術の分野にも山を取り扱わなかったものはない。近年ことのほか登山が盛んになって、登山ブームなどと言われるが、それは〔、〕ただ一時に〔、〕おこった流行ではない。日本人の心の底には〔、〕いつも山があったのである。

 

と書き記して、その「わが国の目ぼしい山に〔、〕すべて登り、その中から百名山を選んでみようと思いついたのは、戦争前のことであった」と、深田久彌は振り返っている。裏を返せば、それは彼が「日本山岳会」(英称→The Japanese Alpine Club、略称→JAC)に入会し、その一方で、みずからの結婚や不倫や......泥沼の男女関係に落ち込んでいく、はなはだ象徴的(symbolic)で、逆説的(paradoxical)な時期でも、あった訳であるが、このような人間の情念や行動の中から、まさしく「山」に託し、その「山」を描く、さまざまな「芸術」が産み出されてきたことは、この『日本百名山』の後記が述べている通りであって、そのような「芸術」の一つとして、そもそも深田久彌の一連の作品(『山の文学全集』)が成り立っていることは、紛れようのない、紛らわすべきではない、事実である。

けれども、このようにして人間が、その名の通りの人間(呉音→ニンゲン、漢音→ジンカン)として、原理的に人と人の間(あいだ→あわい)に成り立ち、成り立たざるをえない以上、山へ行こうが、海へ行こうが――はたまたダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の小説の主人公(ロビンソン・クルーソー)のように、無人島へと漂い着き、そこで独りで、月を仰ぎ見ようとも、そこには人間の生活や、情念や行動が、いつまで経っても纏(まと)い付いてくるのであり、そのこと自体は、かつて私たちの国においても、あの『小倉百人一首』の中で、二十三歳で出家をした西行(サイギョウ→俗名:佐藤義清)も、六十三歳で出家をした釈阿(シャクア→俗名:藤原俊成)も、それぞれの若い日の歌(86番/83番)を通じて、あらかじめ理解をし、覚悟をしていたことでは、あったはずである。

 

  嘆(なげ)けとて 〔嘆け、と言って〕

  月やは ものを思はする 〔月が私に、もの思いをさせるのだろうか〕

  かこち顔なる わが涙かな 〔月のせいにして、流れ落ちる、私の涙よ〕

 

  世の中よ 道こそなけれ 〔世の中よ、のがれる道は......ないのだな〕

  思ひ入(い)る 〔深く思い込み、分け入った〕

  山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 〔山の奥にも妻を訪う、鹿の声が聞こえる〕

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