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「登山」のエティモロジー ――「教養」の来た道(152) 天野雅郎

そもそも「日本人」が――と、このような安易な、あやふやな言い回しは極力、避けたいのであるが、致し方が無いので、ご容赦を。......と言う訳で、そもそも「日本人」が現在のように、いわゆる「登山」(トザン)をし始めるようになったのは、それほど古い話ではない。事実、例えば今回も『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「登山」の語を引くと、そこには最初に簡単な、この語の音読上の説明(「と」は「登」〔トウ〕の慣用音)が置かれていて、その後に第一の語釈として、そのまま本来の、正しい「トウセン」という読み方が、指し示されている。言い換えれば、この「登山」という語は古く、かつて漢字の呉音(すなわち、朝鮮半島経由の中国南方発音)で「トウセン」と読まれていたのが最初であって、それは具体的に言えば、この語が仏教用語であったことを意味している。

したがって、ふたたび『日本国語大辞典』で今度は、その登山(「トウセン」)を調べると、そこには「①戒律清浄や禅定〔ゼンジョウ〕などの修行のために、僧侶などが山にはいり、こもること。修験者〔シュゲンジャ〕などが霊山に参り登ること」と「②山上の寺に行くために山を登ること。寺社に参詣すること」の、二つの語釈が並べられていて、それぞれの用例には鎌倉時代中期(後期?)の『叡岳要記』と、平安時代後期の『中右記』が挙げられている。そして、どちらにも最後には「トウザン」という、この語の古い、もう一つの読み方が付け加えられているから、この語は歴史上、一方では漢音(すなわち、中国直伝の北方発音)でも使われていて、その用例は明治時代の、北村透谷(きたむら・とうこく)や河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)にまで、及んでいるのが分かる。

しかも、興味深いことに北村透谷が、この「登山」(トウザン)という語を『蓬莱曲』の中で使った年(明治二十四年→1891年)は、やがて「日本に〔、〕いわゆる近代登山の種をまき、それを育てあげる役割を果た」すことになる(日本山岳会編『覆刻・日本の山岳名著・解題』1975年、大修館書店)――あのウォルター・ウェストン(Walter Weston)がイギリスから来日し、はじめて「日本アルプスへの第一回山行を試み」(同上)た年でもあって、その山行記(『日本アルプス』)がロンドンで出版されるのが1896年、私たちの国の年号に直せば、明治二十九年のことになる。また、この間には明治二十七年(1894年)に、志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』も刊行されており、要するに、この時期に私たちの国の、近代登山の黎明(レイメイ)の時期が重なり合うことは、疑いがない。

ただし、いわゆる「日本アルプス」という表現自体は、どうやら『日本国語大辞典』の説明を踏まえると、まず明治十四年(1881年)の段階で、これまたイギリス人のウィリアム・ゴーランド(William Gowland)が使い、今では「北アルプス」と個別化(差別化?)をされている、飛騨(ひだ)山脈に対して「日本アルプス」(Japanese Alps)という名を宛がったのが最初のようであり、これに対して、引き続き赤石(あかいし)山脈を「南アルプス」と呼んだのが、先刻のウェストンであり、さらに木曾(きそ)山脈を「中央アルプス」と称したのが、やっと今度は日本人(......^^;)の、小島烏水(こじま・うすい)であって、この三つのアルプスを一つに合わせ、最終的に明治二十九年(1896年)に総称として、目下の「日本アルプス」を位置付けたのが、ふたたびウェストンのようである。

と、このようにして日本語の「登山」(トウセン→トウザン→トザン)の歴史を、あれこれ掘り起こすと、仮に君が山男(やまおとこ)であり、殊勝にも「登山を好み、長年〔、〕山登りをしている男」(『日本国語大辞典』)であるのか、それとも、あのダーク・ダックスが昭和四十一年(1966年)に歌った『山男の歌』(娘さん、よく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ、山で吹かれりゃよ、若後家さんだよ~♪)を、今でも口遊(くちずさ)むことが出来るのか、そのようなタイプではない限り、今回の僕の話には、あまり興味を持って貰(もら)えそうにもない。――とは言っても、昨今、そのような「山男」には目も呉(く)れず、せっせと山登りに精を出す、かつての「山女」とは違った、見違えるほどの「山ガール」も登場しているらしいから、僕は君に、そのような役柄を期待する方が得策かな。

ともかく、このようにして私たちの国に、結果的に「山に登ること。特に近代スポーツの一つとしての山のぼり」(『日本国語大辞典』)が姿を見せ、これが普及するに至るのは、ほぼ今から百年と......さらに四半世紀を隔てた、明治二十年代の中盤であり、それは一口で言えば、私たちの国が「大日本帝国」を名乗り、その名の下に様々な、帝国(Empire)としての外観(exterior)を整え、あるいは内観(interior)を凝らすことに熱中し、躍起(ヤッキ)になっていた、そのような時代の産物であることを、君や僕は見逃すべきではない。そして、そのような形で見霽(はる=晴)かされた、眺望や展望や、いわゆる景観や風景の中でも、もっとも印象的な表示(プレゼンテーション)となり、代表(リ・プレゼンテーション)としての地位を手に入れるに至るのが、まさしく「登山」である。

その意味において、このような近代的(モダン)な登山の用例に、僕は『日本国語大辞典』が明治三十三年(1900年)に作られ、きっと今でも、どこかで君も耳にしたことがあるに違いない、あの『鉄道唱歌』――「こゝぞ御殿場(ごてんば)夏ならば/われも登山(とざん)をこゝろみん/高さは一万数千尺(すせんじやく)/十三州もたゞ一目(ひとめ)~♪」を挙げていることに対して、そこに時代の照応(correspondence=相互交信)以上のものを感じざるをえない。また、それは一見、登山と鉄道という正反対の、一方は至って、人間的な姿をした、垂直性(verticality)への欲望と、一方は至って、機械的な姿をした、水平性(horizontality)への欲望が、とうとう一つに絡まり合い、君や僕を、より高い、より遠い場所へと誘(いざな)い始めていたことも、窺われうるのである。

ちなみに、この『鉄道唱歌』の作詩をしたのが、このブログ(第138回「アダム・スミス 懐郷の歌」)でも、すでに君に紹介を済ませておいた、あの『故郷の空』の作詞家(大和田建樹)であったことは、ここで想い起こされて、しかるべきであろうし、それが「大日本帝国」の誕生を、わずか一年後に控えた「唱歌」であることも、ここで再確認をしておくべきであろう。なお、その翌年(明治二十二年→1889年)になって、そのまま「大日本帝国」の成立と歩調を合わせて、現在の東海道本線は全線が開通をするに至るのであるが、そこから十年ばかりの時が経ち、やがて『鉄道唱歌』にも「御殿場」の駅が登場することになる以前、その富士山の麓(ふもと)から、北村透谷の『蓬莱曲』の主人公(柳田素雄)が富士山の頂を目指すのは、厳密に言うと、今から124年前の出来事であった。

 

  それなる山姫(やまひめ)に物申(ものもふ)さん、

  これは登山(とふざん)のものよ、もの問(と)はん。

 

  あら〔、〕おどろかされぬるよ。

 

  許(ゆる)せかし〔、〕許せかし、はからぬところの

  めぐりあひ、思はぬ琵琶〔びは〕の合(あは)せ歌、

  その歌のこゝろ、さて問はで

  別れんことの〔、〕をしさに、

  無礼(なめ)とは知れど〔、〕君留(とゞ)めぬ。

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