ホームメッセージ北村透谷論 ――「教養」の来た道(153) 天野雅郎

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北村透谷論 ――「教養」の来た道(153) 天野雅郎

つい先日、和歌山大学附属図書館の床の上に、二人の女子学生が転(ころ)がっているのを、発見した折の話である。もちろん、彼女たちは体を、わずかに右にコロコロと、左にコロコロと動かしながら、いかにも楽しそうに、お喋りをしていたのであって、それこそゴロゴロと、床の上を転げ回っていた訳ではないので、念のため。――とは言っても、このような事態に君が、仮に遭遇したとしたら、どのような反応を君は示すのであろう。おそらく、驚くしかない(......^^;)のであろうけれども、僕のように世間ずれをした、狸親父(たぬきおやじ)になってくると、この程度のハプニングにはジタバタしない、ある種の鈍感さ(insensibility)が身に備わってくるのであり、やおら彼女たちに近づき、おもむろに「寝るのは好くないナ~」と、口を開く程度の余裕も、出来上がるのである。

ところが、敵(?)も然(さ)る者、なかなかの腕自慢か、芸達者(ゲイタッシャ)であったと見えて、この二人の女子学生は僕に、何と「寝ていませんヨ~❤」と、笑い返す始末である。そして、いつもの僕であればメラメラと、ここから熱い、戦いの火蓋(ひぶた)が切って落とされる所であったが、この時は残念ながら、ただちに僕は次の授業に出向かなくてはならず、この戦いに休止符を打たざるをえなかった次第。しかも、やがて僕が授業を終え、一目散に帰ってくると、もはや二人の女子学生の姿はなく――そこには、つけっぱなしのエアコンが、誰もいない「教養の森」センターの広々とした空間を、何と設定温度「20℃」で冷やし続けていた、と言いたいのは山々(やまやま)であるが、実は困ったことに、この程度では一向に、涼しくならないのが「教養の森」なのであった。

さて、このような......戦いにもならなかった戦いの後、あたかも僕は狐(きつね)に撮(つま=摘)まれたような気分になって、しばらく考え込んでしまったのであるが、それは彼女たちが「寝ていませんヨ~❤」と言った際の、その「寝る」という語は、はたして彼女たちにとって、どのような行為を意味していたのであろう、という点であった。なぜなら、そもそも「寝る」という行為は「からだを横たえて休む。臥(ふ)す」ことであると同時に、そこから「眠りにつく。ねむる。寝入る」ことにも繋がれば、場合によっては「病気になって床につく。寝こむ」ことも「寝る」であるし、あるいは「宿泊する。とまる。旅寝する」ことも「寝る」であれば、さらには「異性と共寝(ともね)をする。同衾(どうきん)する。性交を婉曲にいうばあいにも用いる」のが「寝る」であったから。

と、このように普段と変わらず、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を僕は引いているけれども、これに「異性」ならぬ「同性」と「共寝をする」ことも含めれば、ますます彼女たちの「寝ていませんヨ~❤」は、僕の耳もとに妖(あや=怪)しい響きを伴い、残響(echo)を繰り返すことになるのである。が、この残響(エコー)がギリシア神話(と言うよりも、ローマ神話)の、あのナルキッソス(Narkissos)に恋をして、あわれにも「声」だけになってしまう、山の妖精(ニンフ)のエーコ―(Echo)の姿を身に纏(まと)うのか、それとも私たちの国のように、これに「こだま」(木霊・木魂)や「やまびこ」(山彦)の語を宛がい、その名の通りに男性(彦⇔姫)の、神であれ、人であれ、物(→物怪)であれ、何らかの霊的な存在を指し示すことになるのかは、大違いである。

したがって、例えば前回、僕が君に紹介を済ませておいた、北村透谷(きたむら・とうこく)の『蓬莱曲』(明治二十四年→1891年)において、主人公(柳田素雄)が蓬莱(ほうらい)山(すなわち、富士山)に登り、そこで死んだはずの恋人(露〔つゆ〕姫=仙〔やま〕姫)に出逢う――という設定にしても、これが私たちの国の文学史の中で、はなはだ新奇な、特異な設定であったことを、まず君や僕は、理解しておく必要がある。そして、それが直接的には、バイロンの『マンフレッド』やゲーテの『ファウスト』や、ひいてはダンテの『神曲』の影響下に産み出されたものであったことも、君や僕は知っておくべきであろう。要するに、このようにして日本の文学は、いわゆる山岳文学という面においても、いたって近代的(modern)な構成や、そのための道具立てを求められたのである。

裏を返せば、そのような構成(construction=複合建築)が姿を現(あらわ=露・顕)し、これが普通の、ありきたりの眺望として眺(ながめ=長眼)られる前には、そこに当然ながら、かずかずの試行錯誤や悪戦苦闘の痕跡(コンセキ)が、留められているし、留められざるをえないのであって、その痕跡を今回、北村透谷の話を通じて、僕は振り返っている。と言い出すと、どうしても話は、彼が「はじめ自由民権運動に関係し、のち「文学界」で活躍。近代浪漫主義運動の先駆者、指導者。首をつって自殺した」(『日本国語大辞典』)という順序で、進まざるをえないけれども、ここでは日本の山岳文学が、明治時代初期の「翻訳小説」や、あるいは「政治小説」の落子(おとしご)であり、より端的に言えば、その鬼子(おにご)でもありえたことを、想い起こしておけば、充分であろう。

と言ったのは、そこから結果的に北村透谷の、政治の季節の終焉や、その反動としての「キリスト教」への入信や、ある種の「恋愛」賛美や、ついには彼の......縊死(イシ)に至るまでの道程(音読→ドウテイ、訓読→みちのり)も、ちょうど「日清戦争」の勃発と重なり合う形で、辿り直すことが叶うからである。この間、実質的に明治二十二年(1889年)の『楚囚之詩』から、自殺の直前(明治二十七年→1894年)の『ヱマルソン』に至るまで、わずか五年余りに過ぎない、彼の文学活動を、一般に君や僕は「浪漫主義」という語で呼んでいるが、この語の成り立ちについては、このブログ(第76回:浪漫派音楽論・第二話)でも、すでに君に報告を済ませておいたように、この語の表記が元来、夏目漱石(なつめ・そうせき)に由来することを、想い起こしておくのも、無駄ではあるまい。

言い換えれば、夏目漱石と北村透谷は、それぞれ慶応三年(1967年)と、その翌年の明治元年(1968年)に生まれた、わずか一歳違いの間柄であり、この二人が私たちの国の近代化(modernization)と、その到達点である「大日本帝国」の成立(明治二十二年→1889年)に対して、あるいは「日清戦争」に対して、どのような反応を示し、より直截に言えば、それぞれ精神に異常を来(きた)すに至ったのかは、この二人の単に、個人の病としてではなく、むしろ世代の病として、さらに時代の病として、扱うべき性格の問題であろう。ちなみに、その「日清戦争」が起き、その渦中に志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』が出版されることになる、その半年前に、満25歳の生涯を北村透谷は閉じ、その半年後に夏目漱石は、満28歳で謎の、例の「都落ち」を遂げることになるのである。

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