ホームメッセージモンブラン ――「教養」の来た道(156) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

モンブラン ――「教養」の来た道(156) 天野雅郎

モンブランと聞いて、まっさきに君は、山のモンブランを想い起こす側であろうか、それとも、お菓子のモンブランを想い起こす側であろうか、はたまた僕のように、万年筆のモンブランを想い起こす側であろうか。――もちろん、この三つのモンブランは揃って、山のモンブラン、すなわち「フランス、イタリア国境にある、アルプスの最高峰。頂上は万年雪におおわれる。氷河が発達している。一七八六年ジャコモ=バルマ、ミシェル=パッカールが初登頂。標高四八〇七メートル。イタリア語名モンテビアンコ」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)に由来しており、その証拠には、お菓子のモンブランにしても万年筆のモンブランにしても、それぞれが山のような姿を留めているし、その頂上はモンブラン(Mont Blanc=白い山)を象徴する、文字どおりの「万年雪」で飾られている。

ちなみに、そのような「万年雪」の影響で、モンブランの標高は毎年、厳密に測定すれば、その年その年、微妙に変化をせざるをえない訳であって、例えば目下、僕が手にしているモンブランの万年筆の、ペン先には「4810」の刻印が押されていて、この数字が昨今では、この山の一般的な高さとして、表示されることが多いようである。とは言っても、実際の山の頂上は、どうやら4792メートルのようであり、翻れば、その上には毎年、微妙に変化をせざるをえない「万年雪」が、深々と乗っかっていることになる。が、そもそも僕自身が、このような数字を並べ立てているにも拘らず、この「白い山」を一度も見たことがなければ、ましてや登ったこともなく、せいぜい「ビアンコ」と言っても、想い起こすのはワインかスパゲッティくらいのものであるから(......^^;)いい加減な話である。

ところで、そのようなモンブランに人類が、初登頂をするに至るのは、先刻の『日本国語大辞典』の記述にもあった通り、1786年のことであり、これを私たちの国の年号に直すと、天明六年のことになる。この年は、例えば日本では江戸幕府の、第十代将軍の徳川家治(とくがわ・いえはる)が死去したり、老中の田沼意次(たぬま・おきつぐ)が罷免されたりして、その翌年には松平定信(まつだいら・さだのぶ)の、いわゆる「寛政の改革」が始まる年であるし、一方のヨーロッパでは在位46年(!)に及んだ、あの啓蒙専制君主の典型、プロイセン王のフリードリヒ二世(「大王」)が死去した年にも当たっている。言い換えれば、このようにして時代は刻一刻と、私たちの国の「明治維新」に照準を合わせると、これから約八十年後に始まる「近代」に向けて、その歩みを続けていた次第。

もちろん、それはヨーロッパやアメリカを引き合いに出せば、この時にはアメリカの、すでに「独立戦争」は終結しており、その翌々年(1788年)には世界最古の成文憲法である、アメリカ合衆国憲法(Constitution of the United States)が制定され、それに基づいて、連邦政府(Federal Government)が発足し、ジョージ・ワシントンが初代の大統領(President)に就任するのは、さらに翌年(1789年)のことであったし、その同じ年には言うまでもなく、ヨーロッパで「フランス革命」(Révolution française)が勃発している。したがって、このブログ(第154回:北村透谷論・拾遺)においても紹介済みの、三田博雄(みた・ひろお)の『山の思想史』(1973年、岩波新書)を再度、引用すれば、このような「山登り」にも人間的な、実に人間的な「デーモン」が潜んでいる訳である。

 

ヨーロッパの近代は科学技術の成立と、山登りでもってはじまる――レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯が示しているように。〔改行〕そしてジェームズ・ワットの蒸気機関の完成、カートライトの力織機の発明と、アルプスの最高峰モン・ブラン(四八〇七m)の初登頂(一七八六年八月七日)とは、同時であった。それは〔、〕いずれも――科学技術も、山登りも、人間のデモーニッシュな活動の両極を代表しているからである。

 

裏を返せば、ここには「科学技術」と称される、これまた「人間のデモーニッシュな活動」の「極」(pole=軸・棒・柱)が、あたかも北極と南極のように、もう一方には存在していたのであり、実際、この折のモンブランへの初登頂を主導していたのが、当時、スイスのジュネーヴ大学の哲学教授であった、オラス=ベネディクト・ド・ソシュール(Horace-Bénédict de Saussure)であったことは、よく知られている。もっとも、哲学教授とは言っても、彼が具体的に関心を持っていたのは、植物学や気象学であり、とりわけ地質学(geology=地球学)の創始者として、有名であるけれども、やがて19世紀になって、いわゆる自然科学(natural science)という形で、一括をされることになる「科学」は、いまだ18世紀には、すべて「哲学」(philosophy)の中に含まれていたのである。

また、この間の経緯については、ふたたび僕が、このブログ(第145回:山のビブリオグラフィー・第六話)で、かつて君に紹介を済ませておいた、小泉武栄(こいずみ・たけえい)の『登山の誕生』(2001年、中公新書)に簡潔な叙述がある。それを踏まえると、この際の初登頂は「医師のパッカール〔原文:パカール〕と農民〔の〕バルマ」により、高山病や雪目(ゆきめ)に悩まされながらも、どうにか達成されたのであるが、この初登頂の引き金になったのは、もともと「地質学者〔の〕ド・ソシュール(一七四〇~九九)の懸賞」であって、これに応じた二人(すなわち、パッカールとバルマ)の初登頂の後、ただちにソシュール自身も「第二登をめざしたが、悪天候に阻まれて退却」を余儀なくされ、やがて「翌年、彼は再びシャモニーを訪れて念願の登頂を果たし」た由(よし)。

なお、シャモニー(Chamonix)は言うまでもなく、モンブランに登るためのフランス側の入口であり、逆にイタリア側の入口に当たるのが、クールマイユール(Courmayeur)であるけれども、シャモニーは結果的に、このような経緯を踏まえて、近代登山の発祥の地と見なされ、世界の登山家(mountaineer→alpinist=アルプス主義者!)の聖地ともなれば、20世紀には第一回(1924年)の「冬季オリンピック」の開催された場所として、歴史に名を留めることにもなり、現在も世界で有数の、スキー(ski=細板)リゾート(resort=脱出)の観光地として知られている。が、あくまでソシュールにとっては、それが二十人に及ぶ案内人(ガイド)や運搬人(ポーター)を伴う登頂であった点からも窺えるように、モンブランは基本的に、観光のための場所ではなく、科学のための場所であった。

ともかく、このようにして酔狂な、一人の物好きのスイス人――遡れば、フランス人の血を引く貴族の、知識欲や知識熱や......要するに、まさしく「サイエンス」を母胎にして、はじめて18世紀の後半、君や僕が目下、登山と呼んでいる、ほかならぬ「人間のデモーニッシュな活動」は始まったのであり、その意味において、それが単に「自然科学」ばかりか、いわゆる「人文科学」も「社会科学」も含めた、ほかならぬ「哲学」と通じ合うものであったことは、この地質学者(オラス=ベネディクト・ド・ソシュール)の家系から、今度は教育学者の娘(アルベルティ―ヌ・ネッケル)や生理学者の息子(ニコラス=テオドール)や、その曾孫に、あの「近代言語学の父」と称されることになる、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)が誕生していることで、明瞭である。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University