ホームメッセージ「スポーツ」して、いますか? ――「教養」の来た道(159) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

「スポーツ」して、いますか? ――「教養」の来た道(159) 天野雅郎

スポーツ(sports)という語は元来、スポート(sport)の複数形である。したがって、そこには最初から、さまざまな種類のスポートが含まれていたことにも......なりかねないのであるが、僕の手許の『英語語源辞典』(1997年、研究社)で調べると、このような複数形のスポーツは、16世紀の末年(1594年)になって「競技会」という形で用いられ始めたのが、起源のようである。裏を返せば、そもそもスポートは「娯楽」や、あるいは「冗談」や「ふざけ」という意味で、15世紀以降に使われ出した語であり、それを遡ると、14世紀のイギリスで「英詩の父」(The father of English poetry)と称される、あのチョーサー(Geoffrey Chaucer)が「(悲しみなどから)気をそらす」や「楽しませる」という動詞に宛がった、より本来の語形である、ディスポート(disport)が姿を見せる。

すなわち、もともとスポーツは「自分を反対の方向に持って行く」という意味の、このディスポートの頭音(ディ→di)が、消失して生まれた語であって、そこから次第に、16世紀には「ゲーム」や、17世紀には「もてあそばれる物」や「おもちゃ」という意味が生じることにもなるのであるが、興味ぶかいのは19世紀になってから、この語が次々と、例えば「突然変異」(!)や「勝負事の好きな人」や、さらに現在、君や僕が普通に使用している、いわゆる「スポーツ」や「スポーツマン」や、それどころか「若い男」という意味まで、獲得することである。が、すでに「スポーツマン」(sportsman)や「スポーツウーマン」(sportswoman)という言い回し自体は18世紀に登場済みのようであるから、これが単純明瞭に、19世紀には「スポーツ」と呼ばれるようになったのが順序である。

ともかく、このようにしてスポーツの語源には、君や僕が自分自身の、普段の生活や日常の仕事を離れて、自分自身を別の状態に置き換える、という行為が前提とされており、その意味において、それが屋内のスポーツであるのか、屋外のスポーツであるのか、個人で楽しむスポーツであるのか、団体で楽しむスポーツであるのかは、二次的な問題に過ぎないし、どちらでも構わない訳である。ましてや、それが俗に言う、アマチュアのスポーツであるのか、プロフェッショナルのスポーツであるのかは――と言って、いささか面倒なことを書き出すと、そもそもスポーツの原義に即して言えば、スポーツは本来、アマチュア(amateur=愛する人)のスポーツでしかありえず、いわゆるプロフェッショナルとスポーツが結び付くこと自体に言語矛盾のあることを、君や僕は知っておく必要がある。

と言ったのは、仮にスポーツが「プロフェッショナル」(professional=宣誓者→公言者・専門家・職業人)として成り立ってしまうと、君や僕が「スポーツマン」や「スポーツウーマン」になった途端に、君や僕はスポーツを、普段の生活や日常の仕事として経験し、それに文字どおりに専心し、専念し、まさしく従事(=事に従う)することになってしまい、もともとスポーツが抱え込んでいた、生活からの分離や仕事からの離脱が、成り立たなくなってしまうからである。実際、そのようにして現在の、いわゆるプロフェッショナルは日夜、職業と化したスポーツに携わり、これに関わり合わざるをえないのであって、彼ら(彼女ら)が本来のスポーツと出会えるのは、困ったことに、彼ら(彼女ら)がスポーツをしていない時か、さもなければ、スポーツを止めてしまった時なのである。

その意味において、どこかで君や僕がプロフェッショナルの、その名の通りの「スポーツ選手」に対して......それを「エリート」(elite=選出者)と呼んでも、今風に「アスリート」(athlete=競争者)と称しても、まったく構わないけれども、そのような彼ら(彼女ら)に声援を送ったり、ある種の憧憬(音読→ショウケイ、訓読→あこがれ)を感じたり、場合によっては、そこに羨望(音読→センボウ、訓読→うらやみ)の念を隠し持たざるをえなかったりするのと並んで、やはり彼ら(彼女ら)に一抹の、憐憫(音読→レンビン、訓読→あわれみ)の情を催さざるをえないのは、このような彼ら(彼女ら)の置かれている、言ってみれば、スポーツとは最も違う、最も懸け離れた境遇に、きっとスポーツの最も好きな人々であるに違いない、彼ら(彼女ら)が放り出されているからである。

ところで、僕が前回も繰り返し、君に紹介しておいた、あの『日本百名山』の著者、深田久彌(ふかだ・きゅうや)の『瀟洒なる自然』(1967年、新潮社)の中には、はなはだ今回も好都合なことに、そのまま「登山はスポーツか」と題された章が含まれていて、そこには「登山は肉体の運動であるからスポーツと見なされているが、普通言うところのスポーツとは違う」と書き出されているので、これを以下、君の一覧にも供しておくことにしたい。――「運動神経の発達した者が優秀な登山者とは限らない。私たちの学生時代には運動の下手な者が〔、〕よく山へ行った。ピッチャーから球を投げてもキャッチャーに届かないような男、鉄棒で尻上がりもできないような男、そういうブキッチョで、どこの運動部へはいる資格もないような男が、山へ行った。そして立派な登山者となった」。

もちろん、ここで深田久彌は「登山者」に、まったく「運動神経」(motor nerve=原動機神経!)は不要である、と見なしているのではなく、むしろ、そのような「運動神経」を「肉体の運動」に限定してしまわない、より多義的で、多面的な「運動神経」を、問題にしている次第。したがって、なるほど「運動神経」は「登山者」にとっても「大切に違いないが、登山は〔、〕それだけで終るものではない。〔改行〕鹿を追う者〔、〕山を見ず、と言うが、そういう技術〔すなわち、登山の筋肉運動的な技術〕だけに走っている者は、とかく山を見失いがちである。いったい彼等は山から何を得て来たか。ただ手足の敏活な運動と、肺活量の大きさと、特大リュックの担荷力を誇るだけであったとしたら、それは登山という豊富豪華な饗宴の〔、〕ほんの一部しか味わわなかった者と言えよう」。

 

登山は普通の肉体的スポーツに比べて、もっと広い精神的分野を含んでいる。美しい山河に対しての感動、予想されない自然現象の変化に対する頭脳的処置、複雑な地形の判断、同伴者との微妙な気持の反映、そして動植物や地質や気象などの観察と〔、〕その収穫。ルールに規定されたり、レコードを争ったりするスポーツとは大いに違うのである。〔改行〕オリンピックには大ていのスポーツが網羅されているが、登山はない。登山はスポーツを越えて、もっと大きな精神的拡がりを持っているからである。それは倫理や美学や芸術にまで関与する。

 

そして、この後に続けて、深田久彌の述べていることが、いたって僕には印象ぶかく、そのために、ここまで延々と『瀟洒なる自然』の引用を繰り返してきたのであるが、それは端的に「登山には古典がある」という言い回しである。要するに、私たちの周囲には「一世紀も前の登山家の紀行が今なお尊重され、愛読され、その刊行本は古書店で高価を呼んでいる。棒高飛びやレスリングに、そういう古典が存在するだろうか。〔改行〕一般スポーツの舞台は、リングやプールやトラックやフィールドである。登山の〔、〕それは複雑で変幻きわまりない自然である。自然と人間との一対一の対決である。それは〔、〕しばしば死に至る対決である」......と、この文章を読んだ時、やっと僕は彼が若い日に、当時の東京帝国大学で哲学の勉強をしていたことが、腑(フ)に落ちるに至ったのである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University