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志賀重昻論(第一話)――「教養」の来た道(160) 天野雅郎

志賀重昻(しが・しげたか→ジュウコウ)の『日本風景論』のことを知ったのは、大学生の頃であった。と言ったのは、僕の机の上に今、置かれている『日本風景論』が上下二冊で、講談社学術文庫から出版されるのが昭和五十一年(1976年)のことであり、それを一応の目安としての、話であるけれども、その当時、この『日本風景論』に僕が興味を持ったのは、きっと......この同じ年に亡くなった森有正(もり・ありまさ)や、その周辺で「風景」という語が、ある種の流行語に近いものになっていたのが原因であったに違いない。とは言っても、その『日本風景論』を僕が手に取り、実際にページを捲(めく)るに至るのは、さらに15年ばかり後のことであって、いまだ当時、この本が大学生であった僕には、とにかく古臭い、さながら「古文」に等しいものに感じられたのも事実である。

ちなみに、この同じ年は僕に、好悪の感情は抜きにして、さまざまな影響(influence←influentia=星の光が流れ込み、起きる力)を及ぼした、多くの人が世界中で、次々と亡くなった年でもある。その意味において、いささか当時のことを想い起こしながら、この年、亡くなった人を亡くなった順に、抜き出してみると次のようになる。――檀一雄、周恩来、アガサ・クリスティ、舟橋聖一、アルノルト・ゲーレン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、久松潜一、ルキノ・ヴィスコンティ、藤原義江、マックス・エルンスト、武者小路実篤、キャロル・リード、マルティン・ハイデッガー、ジャック・モノー、石原謙、ルドルフ・カール・ブルトマン、フリッツ・ラング、毛沢東、エミール・バンヴェニスト、武田泰淳、ギルバート・ライル、ジャン・ギャバン、マン・レイ、アンドレ・マルロー。

さて、このようにして振り返ると、この年に僕が、志賀重昻の『日本風景論』のことを知ったのも、それはそれで、それ相応の影響を感じない訳には、いかないけれども、志賀重昻については、この文庫本の奥付(おくづけ)に簡単な、紹介の文章が載せられているから、これを以下に引用しておくと、そもそも彼は「1863年〔文久三年〕三河(愛知県)岡崎藩士の家に生まれた。札幌農学校を卒業。1888年〔明治二十一年〕三宅雪嶺・杉浦重剛らと政教社を興し、雑誌『日本人』を発刊した。1927年〔昭和二年〕没。本書〔『日本風景論』〕のほか『知られざる国々』『南洋時事』『地理学講義』などの著書がある」と書き記されている。なお、彼が札幌農学校を卒業するのは、1884年(明治十七年)のことであり、例えば君にも周知の、あの内村鑑三(うちむら・かんぞう)の後輩に当たる。

と言うことは、この札幌農学校が現在の、北海道大学の前身である以上、志賀重昻は遡ると、北海道大学の卒業生に名を連ねることにもなる訳である。とは言っても、おそらく君は彼のことを、先刻の内村鑑三や新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)や、あるいは「少年よ、大志を抱け!」(Boys, be ambitious!)で有名な、例のウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)ほど、知ってはいないに違いないし、ひょっとすると君が「風景」という語や「登山」という語に興味がないのであれば、志賀重昻の名前自体を、君は聞いたことがなかったとしても、不思議ではない。なにしろ、すでに僕が大学生の頃でさえ、今回のブログの冒頭にも述べておいた通り、彼の『日本風景論』は「古文」のような扱いを受けていたのであったから、それが若い、君の側には当然の反応であったろう。

と言い出すと、これまた以前、このブログで僕が君に伝えておいた、北村透谷(きたむら・とうこく)にも話は及ばざるをえないのであるが、このように江戸の末年から明治の初年に生まれた日本人......と、とりあえず呼んでおくけれども、彼らの日本語が現在の君や僕にとっては読み辛く、ほとんど「古文」に近い姿を呈しているからと言って、それが当時の日本人にとっても、同じように奇怪な、歪(いびつ=飯櫃)な日本語に見えていた訳ではないことは、やはり見逃されてはならないのであって、例えば『日本風景論』が当時の「学生の間に最も広く読まれた本」であったことは、その典拠となっている、生方敏郎(うぶかた・としろう)の『明治大正見聞史』(大正十五年→1926年)を引いて、ケネス・B・パイルが『欧化と国粋』(2013年、講談社学術文庫)で示している点である。

なお、この当時の日本の歴史を繙(ひもと=紐解)いて、君が殊勝(シュショウ=殊に勝る)にも「近代日本思想」の主要な、人物群や著作群を知りたいのであれば、その「案内」役として、僕は君に鹿野政直(かの・まさなお)の『近代日本思想案内』(1999年、岩波文庫別冊)を、その名の通りに薦めよう。そして、その第四章には先刻のケネス・B・パイル(Kenneth B. Pyle)の著書と同じ――とは言っても、これは単に邦題であって、原題は『明治日本の新世代』(The New Generation in Meiji Japan)であるけれども、その邦題(『欧化と国粋』)と同じ章題が付けられていて、この二つの語が当時の、とりわけ明治二十年代(1887年~1896年)の日本の歴史を、政治史も経済史も、社会史も文化史も含めて、振り返る時には、もっとも重要な鍵語(キーワード)であったことが分かる。

ともかく、このようにして当時は、あの「天は人の上に人を造らず〔、〕人の下に人を造らずと言へり」で始まる、福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)の『学問のすゝめ』に次ぐほどの、まさしく近代日本の、ひいては現代日本の、一大ベスト・セラーであったのが『日本風景論』であって、大袈裟(おお・ケサ→巨大な法衣!)な言い方をすれば、それは福澤諭吉が『学問のすゝめ』の序において、おおよそ「国民六十名のうち一名は必ず〔、〕この書を読みたる者なり」と豪語したのと、似たり寄ったりの状況であったことになる。その意味において、まったく事情は違うけれども、例えば今年(平成二十七年→2015年)の年間ベスト・セラーとなった、又吉直樹(またよし・なおき)の『火花』の240万部に匹敵する、実に「古来稀有(けう)」(『学問のすゝめ』序)の事例でもあった次第。

もっとも、そのようなベスト・セラーも実際の、刊行数と読者数は異なるであろうし、その本を手に取ることで、読者自身が「学問」に励むのか「お笑い芸人」を志すのか、はたまた「登山の気風を興作〔コウサク〕」(『日本風景論』付録)するのかは、別問題であったに違いない。それを踏まえた上で、明治二十七年(1894年)の刊行から120年余りが経って、いまだに古典(クラシック)としての地位を、それどころか「記念碑(モニュメント)」としての地位まで手に入れて、読者を獲得している『日本風景論』のことを、どのように僕は、君に伝えるべきなのであろう。また、それにも拘らず、ほとんど作者本人は世間から忘れられ、地理学者でもあれば政治家でもあり、教育者(早稲田大学教授)でもあった......志賀重昻のことを、うまく君に伝えるのは、至難の業のようである。

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