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瀟洒・美・跌宕 ――「教養」の来た道(167) 天野雅郎

今回も性懲(ショウ・こ)りもなく、志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』の話を、僕は君に聴いて欲しい、と思っているのであるが、そろそろ「志賀重昻論」という表題にも飽きが来た上に、ちょうど話も「日本の秋」に辿り着いている訳であるから、この「飽き」と「秋」を引っ掛けて、いわゆる掛詞(かけことば=懸詞)のように表題を弄(いじ)り、これを玩(もてあそ)んでみようか知らん(......^^;)と考えているのは生来の、僕の移り気の所為(ショイ→セイ)でもあれば、それは志賀重昻の『日本風景論』の説いている、あの「日本風景の渾円(こんえん)球〔=地球〕上に絶特なる所因」である「瀟洒(しょうしゃ)、美、跌宕(てっとう)なるところ」に比べると、いかにも爽(さわ)やかさを欠いた、醜(みにく=見悪)い、コセコセした態度であったに違いない。

ところで、この内の「瀟洒」については、すでに僕は君に、このブログ(第151回:瀟洒なる自然)で話を済ませておいたから、この語が元来、杜甫(ト・ホ)の漢詩に由来する語であり、私たちの国でも平安時代以降、確実に使い続けられてきた語であることや、この語が明治時代以降、日本の「山岳文学」の常套句となり、志賀重昻の『日本風景論』から、例えば深田久彌(ふかだ・きゅうや)の『瀟洒なる自然』(1967年、新潮社)にまで引き継がれた語でもあったことを、この場で再度、繰り返す必要はないであろう。ちなみに、その際に僕が『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、君に紹介しておいた「瀟洒」の語釈は、次の通り。――「①さわやかなさま。さっぱりとして〔、〕きれいなさま。②俗気が抜けて淡白なさま。あっさりとして物に〔、〕こだわらないさま」。

これに対して、二番目の「美」(ビ→漢音、ミ→呉音)の方は前々回(第165回)の、このブログ(志賀重昻論・第六話)において、この語の訓読(すなわち、日本語読み)の「うつくしい」という表現に関して、あれこれ話を、僕は君に聴いて貰(もら)ったはずである。そして、この「うつくしい」という日本語(いわゆる、大和言葉)が、この語の音読(すなわち、中国語読み)との間に、それほど容易には渡り切れない、早い瀬(せ)や深い淵(ふち)を抱え込んでいる点についても......僕は君に伝えておいた次第である。この点は、もともと「美」が中国の古典(classic=最上級)の代表である『易経』や、あるいは『孟子』や『国語』(左氏外伝・春秋外伝)に由来する語であったことを踏まえると、かなり僕自身には興味を惹かれる点であるけれども、さて君は、いかがであろう。

なお、このようにして複雑(complex)に、共に織り合わされ、編み上げられたもの(コンプレックス=錯綜体)である「美」という語を、これまた『日本国語大辞典』は以下の語釈によって、五つに分けて説明しているので、これも一度、君の一覧に供しておくべきであろうが、この内の①と②と③と、さらに⑤が、結果的に中国起源であり、これに対して④だけは、ヨーロッパ起源である。――「①(形動)〔=形容動詞〕形、色彩が整って〔、〕きれいであること。うつくしいこと。また、そのさま。②(形動)飲食して味がよいこと。うまいこと。おいしいこと。また、そのさま。美味(びみ)。③(形動)物事の内容が充実して〔、〕すばらしいこと。また、そのさま。りっぱ。みごと。④哲学で、美的直観の対象のもつ性格を表わす概念。⑤「びじん(美人)」「びじょ(美女)」の略」。

言い換えれば、ここに「④哲学で、美的直観の対象のもつ性格を表わす概念」と、いかにも哲学的(?)な、不可解な物言いをされているのが、実は今の君や僕が、日常生活で普通に使っている「美」であって、それは日本人が困ったことに、やたら哲学を難解で、抽象的な学問と思い込み、そこから脱け出せずにいる事態と裏腹である。......まあ、そのような日本人の悪癖や誤解に、君が我慢強く付き合い続けるのであれば、それは君の自由(勝手?)であるけれども、そのような君にも「哲学的」であることが、そもそも「物事の根本原理に〔、〕さかのぼって、思考したり行動したりするさま」を指し、それを表現し直すと、日本人の苦手な「思弁的に原理を求めるさま。また、哲学の立場に立った思いに〔、〕ふけるさま」であることは、ふたたび『日本国語大辞典』の記す通りである。

さて、このようにして振り返ると、どうやら日本人が日本語で、いわゆる美人(すなわち、美男や美女)や美味(すなわち、美酒や美食)を「美」という語で表現するのは、逆に中国起源の目の使い方(と言うよりも、使わされ方)であり、気の配り方(と言うよりも、配らされ方)のようである。もちろん、それは君や僕の、耳にも鼻にも、口にも手にも、いずれも絶大な影響を及ぼして、今に至っている訳であるが、それが一番、端的に当て嵌まるのは、三番目の「跌宕」であり、この語が「①細事に〔、〕こだわらないこと。こせこせしないさま。物事に頓着しないこと。豪放磊落(らいらく)なさま」を意味し、そこから「②のびのびとして、大きいこと。また、そのさま。雄大。雄健」(『日本国語大辞典』)を表現するようになったのは、やはり中国的な発想法であったに違いない。

その証拠に、このような状態は文字どおりに、大陸的(continental)な形を取り、君や僕の前に姿を見せるのであり、それこそ『日本国語大辞典』が「大陸的」の語釈に、まず「①自然や風土が大陸に特有の性質であるさま」を掲げた後、続けて「②(比喩的に)細かい事に〔、〕こだわらず、のんびりした性質であるさま。することや考えることの規模が大きいさま。また、大まかで、細やかさや味わいに乏しいこと」を掲げているのは印象的であるし、より印象的なのは、それぞれの典拠に同辞典が、前者には久米正雄(くめ・まさお)の『学生時代』(大正七年→1918年)を、後者には中村春雨(なかむら・しゅんう)の『欧米印象記』(明治四十三年→1910年)を、挙げている点であり、それが「世界戦争」(World War)の前後に重なり合っていることも、もはや力説するまでもない。

裏を返せば、このようにして「細かい事に〔、〕こだわらず、のんびりした性質であるさま」は、そこから「することや考えることの規模が大きいさま」が生まれ、さらに「また、大まかで、細やかさや味わいに乏しいこと」が生まれるのも、むしろ当然であり、その一面だけを取り上げて、これを評価したり、非難したりするのは間違っている。ましてや、そこから「シナ人、朝鮮人は「鶯花」(おうか)の真面目〔しんめんもく〕を知覚せざるもの。欧州諸邦にいたりては、初め春に梅花なく、晩春に桜花〔おうか〕なきところ、その春なる者、畢竟(ひっきょう)言うに足るなきのみ」(『日本風景論』)と断じ、それを「日本の春」の「美の精」の、所以(ゆえん)とまで主張したのでは、それは「贔屓(ひいき)の引倒(ひきだふ)しになる」(夏目漱石『三四郎』)のが、落ちである。

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