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富☆士☆山(第一話)――「教養」の来た道(168) 天野雅郎

夏目漱石(なつめ・そうせき)が『三四郎』の主人公(小川三四郎)を、郷里の九州から東京への汽車の旅に向かわせるのは、明治四十一年(1908年)の9月1日(火)のことである。――と言ったのは、この日から年末の12月29日(火)まで、夏目漱石の『三四郎』は「朝日新聞」に連載されるからであり、それが単行本になって春陽堂から刊行されるのは翌年(5月)のことになる。また、その同じ年(明治四十二年→1909年)には『それから』が、さらに翌年(明治四十三年→1910年)には『門』が、いずれも「朝日新聞」に連載され、それが単行本化をされる経緯も同一であって、これらの三作品を合わせて、君や僕は通常、夏目漱石の初期三部作とか前期三部作とか呼んでいるけれども、そこには当然、三部作(trilogy)と称されるに相応しい、主題の統一が存在していた訳である。

もっとも、この主題(subject=「下に置かれたもの」=theme)の統一を、漱石自身が三部作として意図していたのか......どうかは疑わしい。なぜなら、このようにして三部作と名づけられている、最後の作品である『門』の連載を終えた後、わずか一週間に満たない内に、彼は胃潰瘍(gastric/stomach ulcer)のために入院生活を余儀なくされ、その転地療養で赴(おもむ=面向)いた、静岡県伊豆市の修善寺(しゅぜんじ)温泉で、反対に病状は悪化し、いわゆる「修善寺の大患」と言われる、人事不省(Bewustlosigkeit=意識喪失)の危篤状態に陥ってしまうからである。なお、その際、九死に一生を得た夏目漱石(と言うよりも、夏目金之助)が、ふたたび療養を兼ねて関西への、そして何よりも、和歌山への汽車の旅に向かったのは、明治四十四年(1911年)の8月のことであった。

この折の事情については、すでに僕は君に、このブログ(第103回:夏目漱石、途中下車)でも、あれこれ話を済ませておいたから、その気が君に起きるのなら、僕の一年余り前の文章を読み直して貰(もら)えると有り難い。要するに、このような時期に、このような状態で、夏目漱石が呑気(のんき=暖気)に小説家として、ゆっくり三部作を物(もの)しており、おまけに、そこに初期や前期という語まで冠せられて、のんびり彼が机に向かい、筆を執る生活を保障されていた訳では、さらさら無いことを、もう一度、君や僕は確認しておく必要がある。その意味において、彼の小説家としての活動期間は、小説家になる以前の『吾輩は猫である』(明治三十八年→1905年)から数えても、やがて絶筆となる『明暗』(大正五年→1916年)に至るまで、たかだか十二年に過ぎなかった次第。

ちなみに、その『吾輩は猫である』の「吾輩」(=「猫」)のモデル(model=小さな尺度→模型・雛形)ともなった、彼の飼い猫の黒猫は、明治三十七年(1904年)の夏に彼の家(東京府東京市本郷区駒込千駄木町五十七番地)に迷い込み、それから四年余りを過ごした後――ちょうど『三四郎』の連載が始まってから、二週間近くが経とうとする頃に、この世を去ることになる。漱石自身は、この猫の死亡通知を周囲に送ったり、あるいは書斎の裏の桜の樹の下に墓を立てたり、その墓標の裏に一句(此の下に/稲妻起る/宵あらん)を添えたりしていることが、彼の『永日小品』(明治四十二年→1909年)の中の「猫の墓」からは窺い知ることが出来るし、このことは彼の妻(夏目鏡子)の『漱石の思ひ出』(昭和三年→1928年)にも繰り返されているから、君も興味が湧いたら、ぜひ一読を。

と言いながら、ここまで僕は一向に、今回の表題ともなっている「富☆士☆山」について、触れないままに来ているけれども、これは無論、富士山(フジサン)と漢字(すなわち、中国文字)に即して音読をして貰えれば、結構である。もっとも、そもそも富士山を「フジサン」と読むのは、富(フ)と士(ジ)が呉音(すなわち、中国南方音)であり、これを漢音(すなわち、中国北方音)で読めば「フウシ」となるし、これに山(サン)を付け加えるのも漢音であって、呉音であれば「セン」となるのが本来である。要するに、君や僕が普段、あたりまえに「フジサン」と呼んでいる......あの山(やま)は、そのまま日本語で読めば「とみ・さむらい・やま」とか「とみ・つわもの・やま」とか、あるいは「とみ・おとこ・やま」となって、実に滑稽、極まりないネーミングになってしまう。

と言うことは、この山に「富士」という漢字を宛がい、これを富士山(フジサン)と中国伝来の、南方音と北方音を組み合わせて、言ってみれば、チャンポンにしているのは日本人の、お得意の折衷主義(eclecticism)であり、そのことは「富士」が、例えば奈良時代の『常陸国風土記』では「福慈」(フジ)と表記されている点や、それ以降も、この山を日本人が「不尽」や「不二」と、さまざまに書き直してきた点にも、それどころか、どうやらアイヌ語の「火の神」(カムイ・フチ)から、この山の名は端を発しているらしい(!)という点にも、はっきり指し示されている。翻れば、このようにして富士山は、この山を君や僕が「フジサン」と称した瞬間に、君や僕の目の前には繰り返し、いつも必然的に「さむらい」や「つわもの」や「おとこ」の姿が、浮かび上がってくるのである。

ところが、そのような男性的(manly→masculine)な姿をした、猛々しい富士山(フジサン)に対して、あの『万葉集』(巻第三、318)の有名な、山部赤人(やまべ・の・あかひと)の「不尽山(ふじのやま)を望む歌」(田子〔たご〕の浦ゆ/うち出〔い〕でて見れば/真白〔ましろ〕にそ/不尽の高嶺〔たかね〕に/雪は零〔ふ〕りける)を筆頭にして、例えば『竹取物語』でも『伊勢物語』でも、あるいは『古今和歌集』でも『新古今和歌集』でも、むしろ富士山は君や僕の目の前に、しなやかで柔らかく、しかし、時によっては驚くほどに情熱的な姿を身に纏(まと)い、女性的(womanly→feminine)なイメージを君や僕に伝え、感じさせる山でもあることが、忘れられてはならないはずである。そして、そのような文芸上の系譜学(genealogy)に、僕は今、夏目漱石を位置づけたい。

と言い出すと、すでに君は僕が、今回のブログを夏目漱石の『三四郎』からスタートさせていたことも、また前回、志賀重昻(しが・しげたか)の『日本風景論』の関わりで、その『三四郎』の一節を引き合いに出していたことも、その含みを充分に、承知の助(すけ)――とは言っても、この言い回しが君には、時代錯誤(......^^;)に過ぎるのかも知れないけれども、ともかく、よく分かってくれているに違いない。その意味において、今回は紙幅も、もう限られているから、以下に『三四郎』の旅立ちと相前後して、この世を去った、あの『吾輩は猫である』のモデルの黒猫の、死の後日譚について、先刻の『永日小品』の「猫の墓」の中から、きっと「富士山」とも深い繋がりを持っているに違いない、夏目漱石の四女(愛子)の奇妙な振る舞いを、この場に書き留めておくことにしよう。

 

墓標〔はかじるし〕の左右に硝子(ガラス)の罎〔びん〕を二つ活(い)けて、萩(はぎ)の花を澤山〔たくさん〕挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日〔、〕取り替へられた。三日目の夕方に四つになる女の子が〔中略〕たつた一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見てゐたが、やがて手に持つた、おもちやの杓子(しやくし)を卸〔おろ〕して、猫に供へた茶碗の水を〔、〕しやくつて飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝(したゝ)りは、静かな夕暮の中に、幾度(いくたび)か愛子(あいこ)の小さい咽喉〔のど〕を潤(うる)ほした。

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