ホームメッセージ祝☆入☆学 ――「教養」の来た道(17) 天野雅郎

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祝☆入☆学 ――「教養」の来た道(17) 天野雅郎

祝入学。――この表題を、どのように君が読むのかは、君の自由である。頭から、そのまま「シュク・ニュウガク」と音読しても構わないし、それが一番、昨今では普通の読み方であるに違いない。……と、ほとんど前回と同じ言い回しで、今回も僕は筆を起こしているが、そもそも祝入学を「シュク・ニュウガク」と読む以外に、あるいは祝卒業を「シュク・ソツギョウ」と読む以外に、どのような読み方が存在しているのであろうか?仮に今、そのような疑問符(“?”)を、君が頭の中に思い浮かべているとすれば、君は中学生や高校生の頃、相当に国語(細かく言えば、古文や漢文)の時間が嫌いであったか、さもなければ、そのような古典(クラシック)の勉強に手抜きをしたまま、幸運にも大学入試を潜り抜け、はなはだ現代的(モダン)な、当世風の大学生となっているに違いない。

とは言っても、その幸運が君に限られた、君のみの幸運であったのか、どうかは別問題であり、おそらく君は至極普通の、平均的な中学生や高校生であったのではなかろうか? と言ったのは、これらの語を「シュク・ニュウガク」や「シュク・ソツギョウ」と読む以外に、ひょっとすると現在の日本人(ニホンジン?ニッポンジン?)は、選択肢を失くしてしまった虞(おそれ)が強いからである。実際、これらの語を以前であれば――と、その「以前」を遡って、どの程度の「以前」にまで辿り着きうるのか、ここでは不問に付することにして、これらの語を私たちが、当たり前に「ニュウガクをシュクす」や「ソツギョウをシュクす」と読んでいた、そのような読み方が確実に、一方には存在していたはずであるし、そのような読み方の方が本来の、当然の読み方でもあったはずである。

このような読み方のことを、一般に「漢文訓読」と言う。……と、いかにも勿体(モッタイ)を付けて、勿体顔に、勿体臭く、勿体振って、言い出さなくてはならない辺りが、君や僕の「漢文訓読離れ」を如実に指し示しているけれども、このような事態は昨今の、例えば「理科離れ」という語で嘆かれている、私たちの国の傾向、それどころか、このような表現は嫌で、嫌で、使いたくはないが、いわゆる先進国(advanced nation, developed nation)に共通の、類似の傾向にも増して、はるかに危機的な状況ではなかろうか、と僕自身は考えている。なぜなら、君や僕が「漢文訓読離れ」を起こすのと、その一方で「理科離れ」を起こすのとでは、まったく時間の尺度(数千年単位、数百年単位、数十年単位、数年単位)が、異なっているからである。嗚呼(アア)、勿体(モッタイ)無い。

ところで、いったい「漢文訓読」って何? ――と訊かれたら、どのように君は答えるであろうか。仮に、君が数日前、文字通りに「祝入学」の詞(ことば)を浴び、この和歌山大学の門を潜った、正真正銘(?)の新一年生であるのなら、これまで僕の文章を我慢して、君が読み続けてくれた返礼も兼ね、ごく簡単な説明をしておこう。そして、君が中学生や高校生の頃、古文や漢文の時間に苦労をして、漢文訓読の勉強をし、その結果、不幸にも君が古文や漢文(要するに「古典」)のことを、それどころか「国語」という、本当は君にとって大切な、実は英語や数学や社会や理科よりも、ずっと君とって大切な、この必須の教科(と言うよりも、教養)に嫌気が差したのであれば、それは君の毎日の生活の、ひいては君の人生の、とても勿体無い(!)損失であることを、僕は君に伝えよう。

もちろん、君も漢文が元来、中国で生まれ、育った漢字を使い、書かれた文(漢音:ブン、呉音:モン)であることは、よく知っているはずである。が、それならば漢文は、君や僕が現在、中国語と読んでいるものと、まったく同じものなのであろうか? ――と言えば、答えは同じものでもあるし、同じものではない、と見なさざるをえない。理由は簡単で、現在の中国語は中国の、厳密に言えば、中華人民共和国の主要言語であり、その意味においては、まだ還暦(数え年、61歳)を過ぎたばかりの言語であったから。ただし、その際の「中国」という名を古くから、この地に出現した歴代王朝の総称として、その栄枯盛衰の歴史として受け取れば、その変遷は「白髪三千丈」(李白『秋浦歌』)ならぬ「中国三千年」の規模へと、それ以上の規模へと、一挙に拡張せざるをえないことになる。

そのような拡張を認めれば、中国語とは古代から現代に至るまで、この地で「中国」を自称し、逆に、それ以外の周辺諸国を「蛮夷(=蕃夷)」や「夷狄」と呼び慣わしてきた国の言語であり、そのような言語を仮に、ここで「漢語」と置き換えると、そこには古代から現代に至るまで、それぞれの時代の漢語(古代漢語・中期漢語・近代漢語・現代漢語)が、連綿として受け継がれてきたことになる。もっとも、そのような言語を漢語と名付けて、そのまま「漢民族」の言語として位置付けることが、どこまで正当性を主張しうるのか、また、そのような言語の歴史にヨーロッパの時代区分(古代・中世・近代)を持ち込み、宛がうことは妥当なのか、さらに、そこには五大とも七大とも十大とも称される、いわゆる「標準語」や「共通語」とは違う、多種多様な「方言」も絡み合っている。

ともかく、そのような言語を私たちは、ある時には漢語と呼び、ある時には中国語と呼び、これまた古代から現代に至るまで、延々と付き合い続けて、今に至るが、この双方の付き合いには歴然とした、決定的な違いがある。――それは、前者が日本語(と言うよりも、和語)と、ほとんど表裏一体の関係にある、と評して構わないのに対して、あくまで後者は中国語であり、日本語ではない、という点である。したがって、これまで私たちは「漢文」という日本語(!)に対しても、それが中国で書かれた(手っ取り早く言えば、中国人の書いた)漢文であれ、日本で書かれた(手っ取り早く言えば、日本人の書いた)漢文であれ、共に等しく、これを「漢文」と呼び慣わしてきたのであり、そこに中国の漢文と日本の漢文の区別(差別?)を持ち込むことは、実質上、必要なかったのである。

例えば、これまで何度か、この文章で使ってきた「勿体無い」という語を、君は中国語と見なすのであろうか、それとも、日本語と見なすのであろうか?なるほど、この語は元来、勿体(=物体)という語が中国起源ではなく、日本起源である以上、日本語であらざるをえない。が、それにも拘らず、この語を私たちは一見、中国語であるかのような外観(エクステリア)で装い、その上で、あくまで内面(インテリア)は日本語に相応しい形に設(しつら)え、言ってみれば、この語を漢和折衷(「モッタイ・ない」)の住まいへと拵(こしら)え上げてきたのであり、この語を日本風に特殊化し、排他化してきたのではない。そして、そのような共同制作(コラボレーション)に携わる時に、どうやら日本語には最高の能力と、その抜群の機能とが、昔も今も、備わり続けているようである。

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