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泣くんじゃない...... ――「教養」の来た道(175) 天野雅郎

随分、唐突な話ではあるが、君は自分の父親(すなわち、親父)に殴られたり、踏んづけられたり、蹴られたりしたことが、ある側であろうか、それとも、ない側であろうか。どちらでも構わないけれども、僕自身は、ある側である。――とは言っても、僕の場合は結果的に、せいぜい殴られる程度で済んだ訳であって、踏んづけられたり、蹴られたりしたことは、父親の生前、一度として無かった次第。ちなみに、このようにして自分の父親を、文字どおりに「親〔した〕しんで呼ぶ語」が「親父」であり、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)に従えば、これは「おやちち」が、どうやら変化をした語らしく、そこから「現在では、他人に対して自分の父を〔、〕へりくだっていう場合が多い」という事態も生じている。また、その反対語が当然、いわゆる「おふくろ」であった。

もっとも、こちら(「おふくろ」)の方は「本来、母親の敬称で、高貴な対象にも使用したが、徐々に待遇価値が下がり、近世後期江戸語では、中流以下による自他の母親の称となった」ことが、これまた『日本国語大辞典』の「おふくろ」(御袋)の語誌には書かれているから、そもそも「おやじ」(親父・親仁・親爺)とは成り立ち(由緒?)を異にする語であったことが分かる。実際、それを証し立てているのが「おふくろ」の接頭語の「お」(御=尊敬語)であったし、その下に置かれている「ふくろ」にしても、これは形が袋に似ている、女性の子宮(すなわち、子袋)から転じた語であって、君や僕は端的に言えば、その「こぶくろ」(男性形→小袋=睾丸!)から生まれ出たことに敬意を払い、みずからのルーツを確認するかのように、この「おふくろ」の語を口にする訳である。

さて、このようにして今回、僕は君に、その「おふくろ」や「おやじ」の話を、あれこれ聴いて貰(もら)おうか知らん、と思っているけれども、それは前回に引き続いて、夏目漱石(なつめ・そうせき)の次男、夏目伸六(なつめ・しんろく)の書いた『父・夏目漱石』(1956年、文藝春秋新社→1991年、文春文庫)と、その続編の一つ(『父と母のいる風景』1967年、芳賀書店)が、目下、僕の膝の上に置かれているからである。ただし、この二冊の本の間には、後者の副題(「続父・漱石とその周辺」)からも窺えるように、その同年(昭和四十二年)に同じ、芳賀書店から出版された『父・漱石とその周辺』や、さらに遡れば、昭和三十五年(1960年)に文藝春秋新社から刊行された『猫の墓』が、その繋ぎ役として、ここに挟まってくるのであるが、残念ながら、僕自身は未読である。

ところで、僕が前回、君に紹介した「父・臨終の前後」という一文は、そこに漱石自身の没年(大正五年→1916年)から「すでに四十年を経過した今でも......」という記述が含まれているので、はっきりしているけれども、ちょうど『父・夏目漱石』の出版と同年に書かれたものであった。――それに対して、この本の冒頭には逆に、作者(夏目伸六)が「まだ二十歳(はたち)台の頃に、毎日新聞の依頼を受けて、始めて書いた原稿」(『父と母のいる風景』「自著と題名」)も収められており、こちらは「父〔・〕夏目漱石」と題された、まったく書名と同一の一文である。そして、そこには「私の父の死んだのは、大正五年の十二月であり、当時〔、〕私は小学校の二年生であった......」として始まる、あの「父・臨終の前後」と共通の、漱石一家の思い出が、次のように物語られている。

 

私等が母につれられて、やっと父の枕元に坐った時、父は突然〔、〕眼をあけてニッと異様な笑い顔をした。私は父のこんな笑い方を〔、〕それまでついぞ〔、〕みたことがなかった。〔中略〕隣に並んだ姉達は、いつの間にか声をあげて泣き始めていた。その泣声が聞えたのか、父は〔、〕また急に眼をあいた。〔改行〕「泣くんじゃない、泣くんじゃない、いい子だから」〔改行〕父の〔、〕こんなやさしい声を聞いたのも、私は〔、〕この時が初めてだった。しかし〔、〕その言葉を聞いた時、私は決して泣いてはいなかった。悲しささえも感じていなかった。〔中略〕父は〔、〕その夕方〔、〕死んでしまった。

 

多分、この一文が書かれたのは、この作者の生年(明治四十一年→1908年)から判断して、その「二十歳台の頃」に当たる、昭和五年(1930年)前後の時期であったろう。その意味において、このような「父・臨終の前後」の光景は、その折から数えて、二十年後も四十年後も、ほとんど変わることなく、その物語(ストーリー)が紡がれ、紡ぎ直され、そこから百年後の、ちょうど現在(平成二十八年→2016年)に至っては、もはや歴史(ヒストリー)となって、定着済みである。しかし、その中に例外的に、あたかも異分子のように物語られていたのは、このような「父・臨終の前後」の枕辺で、まさしく今、死に至ろうとしている父親の周囲に集い、泣き続ける子供たちの中に、ただ一人、最後まで「決して泣いてはいなかった」のが、この『父・夏目漱石』の作者であったことであろう。

この点は、実は「父・臨終の前後」の書かれた段階においても、そこに「父の死に直面しても、涙一つ流さなかった私」という形で、振り返られている。けれども、これが「父〔・〕夏目漱石」の場合には、のっけから「父に対して〔、〕ほとんど愛情らしい愛情も抱いていなかった――今も同様〔、〕依然として抱いていない」私として登場し、この一文を貫く、モティーフ(motif)のごとき姿を呈することになる。しかも、その、動機と言おうか、誘因と言おうか、主題と言おうか、このモティーフが強烈な、いちばん過激な姿を君や僕の前に示すのは、この作者が「小学校へあがらない、小さい時分の〔中略〕薄ら寒い曇った冬の夕方」のことであり、その時、父親(すなわち、夏目漱石)から「気違いじみた取扱いをされた覚え」が、これ以降、この息子の胸に深く、巣くうことになる。

 

その瞬間、私は突然〔、〕怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はっとした時には、私はすでに父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上に打倒(ぶったお)れていた。その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす。〔中略〕私は〔、〕ありったけの声を振り絞って泣き喚〔わめ〕きながら、どういう訳か、こうしたすべてを夢現(ゆめうつつ)のように意識していた。〔中略〕そして〔、〕その合間合間に、はな〔洟〕や、涙を一緒くたにズルズル咽喉〔のど〕の奥へ吸いこみながら、私は先へ行ってしまった父の後から〔、〕やっとの思いでトボトボついて行った。

 

このような事態が具体的に、どのような状況で生じたものであるのかは、君が自分で、手ずから『父・夏目漱石』のページを捲(めく)り、知るべきはずの事柄であろうが、あえて蛇足を加えておくと、それが漱石自身の「一生を悩まし続けた潔癖性と癇癪〔かんしゃく〕」(「父・臨終の前後」)に起因するものであることは、言うまでもなく、さらに遡って、それを彼の「持病」や「病的な心理」(「父〔・〕夏目漱石」)に結び付けることも、それはそれで、納得の行く説明方法であったに違いない。でも、その上で強いて、誤解を恐れずに述べておくと、僕自身は別段、このような夏目漱石の忿懣(フンマン=憤懣)や激昂(ゲキコウ=激高)が、彼に固有の、独自の性格(性癖?)に由来するものであり、それが個人的に特別な、異常な精神状態であったとは、さらさら思っていない。

なにしろ、僕が子供の時分には、いまだ父親は日常、子供と親しく話をしたり、どこかに出掛けて、レジャーを共に楽しんだりする、そのようなフレンドリーな存在ではなく、むしろ『父・夏目漱石』に想い起こされているような、散歩をしたり、食事に連れて行ったり、相撲を取ったり、カルタ(carta→ポルトガル語!)で遊んだりする父親は、はなはだ特異な存在であったからである。事実、その頃には例の、地震・雷・火事・親父(=親爺)という語も、あたりまえに使われていたのであり、その点、このようにして「世の中で恐ろしいものを順に並べた表現」の用例に、ふたたび『日本国語大辞典』が太宰治(だざい・おさむ)の『思ひ出』(昭和八年→1933年)を挙げ、そこに「地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起ったなら......」と書き記されているのは、何とも印象的である。

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