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猫と鼠と、漱石山房 ――「教養」の来た道(176) 天野雅郎

夏目漱石(なつめ・そうせき)が亡くなったのは、ちょうど今から百年前の、大正五年(1916年)のことである。享年、数えの50歳。満年齢に直せば、49歳に当たる。と言うことは、何と来年(平成二十九年→2017年)は彼が生まれてから百五十年目の、言ってみれば、ふたたび五十年に一度の金儲けの年を迎えることにもなるのであって、このようにして漱石自身は、すでに百年前に鬼籍の人となっているにも拘らず――例えば21世紀に限っても、今年と来年と、2066年には没後150年が、2067年には生誕200年が、めぐってくることになる訳である。が、残念ながら僕自身は、これ以降の二つの、この記念の年には立ち会うことが叶わず、いたって清々(せいせい=晴々)しているけれども、その代りに20世紀の間、彼の生誕50年を別にすれば、没後50年と生誕100年は、経験している。

もっとも、僕自身は当時、いまだ小学生であって、せいぜい市村泰一(いちむら・ひろかず)の監督した『坊っちゃん』(昭和四十一年→1966年)が、主役を演じた坂本九(さかもと・きゅう)の顔と共に、うっすら脳裏に浮かぶ程度である。と書いて、ふと想い起こしたので、付け加えておくと、やはり僕自身は一連の『坊っちゃん』映画では、昭和五十二年(1977年)に前田陽一(まえだ・よういち)が監督して、中村雅俊(なかむら・まさとし)が主役を演じた、同じ松竹映画が印象に残っている。とは言っても、いちばん僕自身が記憶しているのは、昭和四十七年(1972年)のTVドラマの『坊っちゃん』(日本テレビ)であり、こちらは主役が竹脇無我(たけわき・むが)で、マドンナ役は当時、僕の「マドンナ」(......^^;)であった、山本陽子(やまもと・ようこ)が演じていた次第。

このようにして振り返ると、漱石自身が亡くなった年と、その翌年を別にすれば、少なくとも20世紀には二度、二年に亘って、彼の没後50年と生誕100年が、めぐってきていたことになる。ところが、たまたま先刻から、ずっと僕は朝日新聞社が主催して、東京と大阪の松坂屋で開かれた、まさしく『生誕百年記念「夏目漱石」展』のカタログを、パラパラと捲(めく)っているのであるが、それは結果的に、たかだか60ページ余りの小冊子(パンフレット)に過ぎず、その大半は彼の生涯と、そこから産み出された書画の写真によって埋め尽くされている。もちろん、白黒写真である。たしかに、巻末には武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)と伊藤整(いとう・せい)の文章も、短いながらに載せられているし、略年譜や出品目録も含めて、それ相応の展覧会であったことは分かる。

けれども、これを現在、彼の没後100年と、ひいては生誕150年を記念して開かれている、さまざまな展覧会と比べた時に、どうしても質素な、端的に言えば、貧相な感じがしてしまうのは、なぜなのであろう。もちろん、そこには素人(しろうと=白人)の目で判断しても、費やされた金の額や、その金に群がり集う、いわゆる玄人(くろうと=黒人)の数と、その腹黒さには、桁違いの開きがあるのであろう。――と、このような話をしていて、ふと想い起こしたのが、どうやら来年、夏目漱石の生誕150年を記念して、東京都(新宿区)が彼の「漱石山房」を復元し、博物館や図書館の機能を兼ね備えつつ、昨今、お決まりの「カフェ」や、おそらく漱石関連の「グッズ」を販売する店を設(しつら)えた、大規模な記念館としてオープンさせる予定であるらしい、というニュースである。

この家(「漱石山房」)は、彼が明治四十年(1907年)の秋に転居して以来、亡くなるまでの九年余りを過ごした場所であって、残念ながら、いわゆる「太平洋戦争」(→アメリカ側の呼び名、日本側の呼び名→「大東亜戦争」)の戦禍で、昭和二十年(1945年)に焼失してしまっていたのであるが、それを今回、このような形で復元するに至った訳である。場所は、当時の呼称では牛込区に、現在の呼称では新宿区(早稲田南町)に当たる。なお、この家に転居する以前、漱石自身は当時の本郷区、現在の文京区(西片一丁目)に、明治三十九年(1906年)以降、暮らしており、さらに遡ると、このブログ(第168回:富☆士☆山)においても、すでに僕が君に伝えておいた、あの『吾輩は猫である』の「吾輩」(=「猫」)の迷い込んだ、当時の本郷区、現在の文京区(向丘二丁目)の家へと辿り着く。

この点を、この『吾輩は猫である』の「吾輩」の側から跡付けると、この「猫」は明治三十七年(1904年)の夏(7月)に、たまたま夏目漱石の家(東京府東京市本郷区駒込千駄木町五十七)に迷い込み、それから二年後に当時の本郷区(西片町十ノろノ七)に引っ越しをし、その翌年には牛込区(早稲田南町七)に移り住み、そして、その翌年(明治四十一年→1908年)の秋(9月13日)に、この世を去ったことになる。ちなみに、この年の末(12月17日)に、逆に生まれたのが、このブログでも前回(第175回:泣くんじゃない......)と前々回(第174回:富☆士☆山・第七話)に二度、ご登場を願っている、夏目伸六(なつめ・しんろく)であるけれども、ふたたび彼の『父と母のいる風景』(1967年、芳賀書店)には、次のような「漱石山房」の様子が描き出されているので、ご一読を。

 

そう云えば、私の眼にも、未だにありありと、書斎の天井から、四方の壁へかけて、夥(おびただ)しい雨洩〔も〕りのあとの、黄色く残って居たのが思い出されるので、而〔しか〕も、その所々には、鼠の食い破った穴が、何か所か〔、〕あいて居た。尤〔もっと〕も、父の生存中は、この鼠共も、専〔もっぱ〕ら深夜の台所を活躍舞台ときめて居て、滅多に、書斎の方へは、顔を出すこともなかったのだが、父の死後、主の居なくなったのを〔、〕いいことに、次第に横着〔おうちゃく〕さを増して来て、遂には、真昼間から、傍若無人に、書斎の中を駈けずり廻る程になったのである。

 

この書斎が、実は漱石自身の亡くなった、当の場所である。広さは十畳で――とは言っても、そこに敷かれていたのは畳ではなく、板張りの床の上に絨毯(ジュウタン)を敷いて、机や火鉢や鉄瓶を置き、写真に納まった彼の姿を、君も一度は目にしたことがあったのではなかろうか。ただし、この書斎を漱石自身が、どこまで気に入っていたのかは、あやしい話であって、前掲の夏目伸六の回想(「早稲田の家と古雑誌」)にも、続けて「内心では、明窓浄机、出来れば明るい家に住みたかった父が、天気のいい日など、わざわざ机を、日当りの良い縁側に持ち出して、達磨〔ダルマ〕の様に、すっぽりと、自分の羽織をかぶったり、時には、麦藁帽子を頭に乗せた儘〔まま〕、原稿を書いて居たのも、結局は、暗く寒々とした、板張りの自分の書斎が嫌だったからに違いない」と述べられている。

しかも、この「明治調の〔、〕悪くハイカラがった洋間まがいの〔、〕この部屋は、まるで土蔵造りの様な厚い白壁に囲まれて居た上に、どう云う積りか、その壁には、さながら気違い病院か、監獄を思わせる様な、ふとい鉄格子の嵌〔はま〕った陰気な窓がついて居た」由(よし)。そして、その白壁を食い破り......夜な夜な、この書斎は鼠の走り回る、運動場のごとき様相を呈することになる。が、その鼠も漱石自身が生きている間は、その姿をオイソレとは、あらわさなかったようであるし、それは多分、あの『吾輩は猫である』の「吾輩」の、生きている間も同様であったろう。裏を返せば、その「吾輩」が死に、やがて漱石自身が亡くなり、それ以降も、ひたすら「漱石山房」で飼われ続けた猫たちは、どうやら鼠を獲ることの出来ない、それとも、不得意な猫たちであったに、違いない。

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