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田舎者(いなかもの)め! ――「教養」の来た道(180) 天野雅郎

今回も再度、僕は君に小栗風葉(おぐり・ふうよう)の話を、あれやこれや、聴いて貰(もら)う予定であるけれども、そもそも僕が、このようにして小栗風葉という作家に拘泥(音読→コウデイ、訓読→こだわり)を持っている理由は、実の所、僕自身にも......よく事情が分からないのであって、その詳細が君に、分かるはずはないよね。――と言ってしまうと、あまりに身(み=実)も蓋(ふた)もない話に、なりかねないのであるが、もともと僕自身は人間の関心や興味など、その程度のものであり、むしろ重要なのは人間の関心(concern=共同選別)や興味(interest=中間存在)が、いつも人間と人間の間(あいだ)にしか成り立たず、その意味において、そこには絶えず「共同」や「中間」が大きな力を及ぼしている、という事実の方に、逆に興味や関心を呼び起こされるのである。

ところで、小栗風葉は本名を磯平と言い、後に磯夫と名を改めることになるけれども、明治八年(1875年)に当時の、愛知県知多郡半田村、現在の半田市に生まれている。そして、やがて彼が尾崎紅葉(おざき・こうよう)の『むき玉子』に感動し、入門の決意を固めるのは、明治二十四年(1891年)のことになる。ただし、ひとたび入門を許可された後も、風葉自身は帰郷や放浪を繰り返し、明治二十八年(1895年)に紅葉宅の玄関番になったのは、数えの21歳の時であった。したがって、ここから明治三十六年(1903年)に尾崎紅葉が亡くなる時まで、この二人の師弟関係は僅かに、八年余りの期間に過ぎないのであって、初対面から数えても、十二年が精々である。しかも、この間に小栗風葉が親しく、尾崎紅葉の謦咳(ケイガイ)に接することが叶ったのは、たかだか四年にも満たない。

ところが、この間に尾崎紅葉と小栗風葉の間には、曰(いわ)く言い難い、親密な師弟関係が成り立ったようであり、例えば今、僕が膝の上に置いている、講談社版(増補改訂版)の「日本現代文學全集(11)」(『山田美妙・廣津柳浪・川上眉山・小栗風葉集』1980年)の解説(和田芳惠「小栗風葉入門」)を踏まえると、いわゆる「牛門の四天王といわれた泉鏡花〔いずみ・きょうか〕、小栗風葉、柳川春葉〔やながわ・しゅんよう〕、德田秋聲〔とくだ・しゅうせい〕の中で、尾崎紅葉が心から愛した弟子は風葉であろう。〔中略〕紅葉が弟子としての風葉を知ったときから、いつも気にかかる存在であった。〔中略・改行〕不良少年らしく、すかっと、割りきれたところが、いじいじした文学青年と変った趣きがあって、洒脱〔しゃだつ〕な紅葉の気に入ったのであろう」と述べられている。

ちなみに、この「牛門の四天王」と言うのは、当時、尾崎紅葉の住まいが東京(東京府東京市)の、その名の通りに牛込区横寺町(47番地)にあったことからの呼び名であり、別に「紅門の四天王」と称する場合もあるが、この四人を入門順に並べると、そのまま泉鏡花が筆頭で、ちょうど尾崎紅葉が上記の住まいに引っ越しをした、明治二十四年(1891年)の入門になる。そして、そこから一年刻みで、明治二十五年(1892年)の小栗風葉、明治二十六年(1893年)の柳川春葉と続き、最後が明治二十八年(1894年)の德田秋聲に至るのであるが、僕が先刻、君に伝えておいたように、小栗風葉が紅葉宅の玄関番になるのは、厳密に言えば、德田秋聲の入門の直後であった。......と、このような細々とした数字を並べ立てているのは、それが彼らの人間関係をも規定しているからに他ならない。

なぜなら、この四人を今度は、年齢順に並べ替えると、いちばん年長は明治四年(1871年)に生まれた德田秋聲になるのであって、彼と同郷(石川県金沢市)の出身である、泉鏡花は明治六年(1873年)の生まれであり、その後が明治八年(1875年)に生まれた小栗風葉となって、この四人の中で最も若く、最年少であったのは、明治十年(1877年)の生まれの柳川春葉であった。ついでに、この四人の出身地は最後の、柳川春葉のみが唯一、例外的に東京であったけれども、彼も本(もと)を正(ただ)せば父親は、現在の兵庫県に当たる、播磨(はりま)の国の龍野(たつの)藩の家老職であったから、もともと東京(と言うよりも、江戸)の血を引いていたのは、彼らの師匠に当たる、尾崎紅葉のみであったことになり、言ってみれば、ここにも日本の近代の縮図を見ることは可能である。

この点については、例えば「紅葉先生」という談話において、泉鏡花と小栗風葉の二人が雑誌記者の取材訪問(インタヴュー)に答える形で、あれやこれや、尾崎紅葉のことを語っている一文が参考になる。目下、この一文は筑摩書房版の『尾崎紅葉集』(「明治文學全集(18)」1965年)に収められていて、僕自身も今、それを繙(ひもと=紐解)いて君に話を、している訳であるが、この談話が掲載されるのは結果的に、ちょうど明治三十六年(1903年)の『明星』(11月号)であったから、それは尾崎紅葉の亡くなる、ほんの直前の談話であったことにも、なるのである。――ともかく、この談話に従えば、いつも尾崎紅葉は弟子たちを「田舎者め!」と叱り付け、剣突(けんつく)を食わせ、文字どおりに「腰刀」に手を掛けて「お手討」にしようとした(......^^;)と言うから、大変である。

要するに、このようにして日本の近代文学は、江戸時代が終わり、明治時代が始まり、その時代転換の象徴(symbol=割符)として、首都(ひいては、帝都!)である東京(トウキョウ? トウケイ? トンキン?)に群がり集った「田舎者」と、彼ら(あるいは、彼女ら)が師匠と仰ぐ、尾崎紅葉のような「都会人」との相互交渉の中で、その形を刻み出していくのであり、それは言うまでもなく、あの「漱石山房」に出入りをした、夏目漱石(なつめ・そうせき)の門下生たちの姿と、二重写し(オーヴァー・ラップ)の関係にある。その意味において、尾崎紅葉と夏目漱石が同じ、慶応三年(1867年)の生まれであったことは、いたって興味ぶかい点であるし、この二人の活動時期が異なることで、この二人が日本の近代文学において、違う位置を占めるものであると、錯覚してはならない。

例えば、尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』(明治二十二年→1889年)を「田舎」で読み、これに感動した泉鏡花が心の中で、いつも「絶えず〔、〕兎〔と〕も角〔かく〕も東京に出たい〔、〕出たいと存じて、夢にも忘れる暇はありませんでした」と告白することになる、その「東京」や、ほかならぬ紅葉自身との邂逅(音読→カイコウ、訓読→たまさか)を、今の君や僕は多分、その何分の一の、それどころか、何十分の一の感慨を持ってしか、受け止めることは出来ないであろう。が、そのようにして「どうぞ一度〔、〕逢って見たい、逢って小児〔こども〕の時からの願を打明けて」みたい――と待ち続けた瞬間は、なぜか「始めて〔、〕お目にかかったのでありましたが、前から知った方のような、また、どこかで覚えのあるような気がした」出会いであることに、昔も今も、違いはないのである。

 

先生の〔、〕おっしゃるのに、大層こちらに来て困って居るそうだが、本でも読めたかと云う〔、〕お尋ねがありました。勿論〔、〕私は小説をやりたいと云う考えで、東京へ勉強に出ましたが、なかなか本を読むわけには参りません。〔中略〕何より食うのに困りますから、モウ田舎に帰ろうと思いましたが、それにしても、せめて〔、〕お顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして〔、〕私は本望でございます。といいましたが、何だか胸がせまって〔、〕うつむいて了〔しま〕いました。然〔そ〕うすると、まるで夢のようです。お前も小説に見込まれたな、といって〔、〕お笑いなすって、都合が出来たら内に置いてやってもよい、しかし手狭〔てぜま〕だから、はいり口に下宿屋がある、あすこで勉強をさしてやろう、用のある時だけ家(うち)へ呼んで、させる事にして、兎に角に世話はしよう、家に置くか、下宿屋に置くか、あした来な、それまでに〔、〕きめて置くからと、おっしゃッたのです。

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