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「詩星堂」の青春 ――「教養」の来た道(181) 天野雅郎

日本の文学の歴史を振り返る時、僕自身は文学(literature)と呼ばれる営みが、その名の通りに文字(letter)を読むことや、あるいは書くことで成り立ち、したがって、そこには文字の読み書き力(literacy)が必然的に要求される以上、その読み書き力(リテラシー)を誰かに学(まな→まね=真似)び、習(なら=倣)うのか、それとも自力で、独力で、その読み書き力を身に付けるのかは、はなはだ重要な文学の境界標識(ランドマーク)ではなかろうか......と思っているけれども、さて君は、いかがであろう。言い換えれば、そのような境界標識が結果的に、どんどん集団(group)の側にあるものから個人(individual)の側にあるものへと、その姿を変えていったのが、君や僕の生きている、この近代(modern times=現代)という時代の、大きな特徴ではなかったのか知らん。

ところで、いたって私事(音読→シジ、訓読→わたくしごと)で恐縮であるが、たまたま先刻、僕は正宗白鳥(まさむね・はくちょう)の『作家論(一)』(1941年、創元選書)のページを、ひさびさに開き直していて、そこに収められている、尾崎紅葉(おざき・こうよう)の章を読み出した途端(トタン!)――何と、そこには121ページから136ページへと至る、計16ページが抜け落ちているのを発見し、愕然とすると同時に、そのことを完全に忘れていた自分自身に対しても、呆然自失としている始末であるが、いくら奥付に「万一〔、〕乱丁〔らんちょう〕落丁〔らくちょう〕本がありましたら取替えます」と書かれてはいても、さすがに75年前の本では無理だろうなあ、と悩みながら、とりあえず残りのページだけは読むことにして、もう一度、この本を古本で探し直すことにした次第。

ちなみに、この本の発行所の創元社は、かつて小林秀雄(こばやし・ひでお)が取締役をしていたことでも知られており、その関係で我が家(天野図書館)の本棚にも、彼の訳したアランの本(『精神と情熱とに関する八十一章』)を始めとして、お世話になった本が幾つも、並んでいる。そう言えば、小林秀雄の『文学Ⅰ』と『文学Ⅱ』の評論集も、あるいは『無常といふ事』も『歴史と文学』も『私の人生観』も、それから彼の訳した『ランボオ詩集』も、ことごとく創元社の刊行した本であったことが想い起こされ、いささか僕は......しみじみ(染み染み)とした感慨に耽(ふけ=更)らざるをえない。なお、この創元社から後年、東京支社が独立し、生まれたのが東京創元社であって、こちらは君が、仮に推理小説やSF小説の熱心な読者であるのなら、あまりにも有名な出版社であろう。

閑話休題。このような不測の事態で、僕が目下、目を通すことの叶っているのは、正宗白鳥の「尾崎紅葉」論の、わずか3ページ足らずに過ぎない訳であるが、そこには先刻、僕が君に伝えておいた、日本の文学の境界標識を巡(めぐ=廻)って、以下のような興味深い指摘が含まれている。今回も、君の便宜を踏まえて、新漢字と新仮名遣いに直してあるから、この大正十五年(1926年=昭和元年)の時点の文章も、君には接近が可能なはずである。――「文学の上から云えば、こういう師匠を戴〔いただ〕くことは弟子として幸福ではなく、師匠自身に取っても〔、〕いいことではあるまい。文学に於〔おい〕ては、飽くまでも自己の天分の発揮すべきもので、師匠の束縛なんか受けては〔、〕たまるものでない。好んで人の師になるものも愚かであるし、進んで人の弟子になるのも愚かである」。

さて、いかがであろう。この文章が書かれたのが、ちょうど大正から昭和へと、私たちの国の年号が切り替わる年であった点についても、然(さ)ることながら、この文章を書いているのが明治十二年(1879年)に生まれた、正宗白鳥であった点についても、いささか僕自身は関心がある。と言ったのは、やがて彼と前掲の......ふとした偶然で僕が名前を挙げておいた、小林秀雄との間に交わされることになる、いわゆる「思想と実生活」論争(臼井吉見『近代文学論争』1975年、筑摩叢書)も含めて、このような生活観や人生観や、そこから産み出される、文学観や芸術観の違いを決めるのは、やはり当人の生まれ合わせた時代や、ひいては世代の差が大きな影響を及ぼしているのではないか知らん――と、このような当たり前のことに、当たり前に、僕自身は思いを寄せざるをえないのである。

言い換えれば、一方に尾崎紅葉や夏目漱石(なつめ・そうせき)を始めとする、江戸時代の末年に生まれ合わせた、その意味において、かなり心の中にも体の中にも、いまだ江戸の血が色濃く、引き継がれている文学者の世代があって、そこから僅かに数年を隔てながらも、例えば德田秋聲(とくだ・しゅうせい)や泉鏡花(いずみ・きょうか)や小栗風葉(おぐり・ふうよう)や柳川春葉(やながわ・しゅんよう)や、彼らのように「牛門の四天王」と称される、地方出身(田舎者!)の文学者の世代があって、そこから更に、今度は明治十年代に生まれ合わせた、正宗白鳥や有島武郎(ありしま・たけお)や永井荷風(ながい・かふう)や、志賀直哉(しが・なおや)や武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)や谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)や、このような世代が後を追う。

が、残念ながら僕自身は、彼らのような「都会人」でもないし、また「田舎者」でもない。なぜなら、これまで僕は一度として、このような「都会人」と「田舎者」の識別や判別の場に足を踏み込んだことがなく、足を踏み込む気も、さらさら起きないからである。むしろ僕自身は、生来、このような「都会人」と「田舎者」の差別を産み出すための仕組である、東京という日本の首都(ひいては、帝都!)への関心や興味を欠く側であり、僕が前回、君に報告を済ませておいた、あの泉鏡花の告白(「東京に出たい〔、〕出たいと存じて、夢にも忘れる暇はありませんでした」)も、ましてや「今に、今に、俺(おれ)だって豪(えら)くなる......豪くなる......日本文壇の権威になって見せる......」(『東京の三十年』)という田山花袋(たやま・かたい)の執念も、僕には皆目、無縁である。

もっとも、そのような僕にも前回に引き続き、あの小栗風葉が明治二十九年(1896年)の年末から、二年余りを過ごした「詩星堂」は、とても魅力的な空間に映るのであって、この空間が德田秋聲や柳川春葉と一緒に、尾崎紅葉の隣家で開かれた「小説教室」(和田芳惠「小栗風葉入門」)であり、そこでは小栗風葉が「塾頭格」を務め、先刻の「田山花袋も、よく顔を見せた」という、その空間の醸(かも)し出す不思議な雰囲気に、僕自身は奇妙な懐かしさ、と評しても構わないほどの、愛着を催さずにはいられない。それと言うのも、それは僕の大好きな、市川準(いちかわ・じゅん)の監督した映画(『トキワ荘の青春』)にも重なり合う、言ってみれば、何時の時代にも変わらない「青春」が、そこにはキラキラと輝き、ハラハラと散っていくかのような気が、してしまうからである。

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