ホームメッセージ『靑春』の周辺 ――「教養」の来た道(182) 天野雅郎

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『靑春』の周辺 ――「教養」の来た道(182) 天野雅郎

目下、小栗風葉(おぐり・ふうよう)の『靑春』を読んでいる人間が、日本中(それどころか、世界中)には、どの程度、存在しているのか知らん......と思いながら、その『靑春』のページを僕は捲(めく)っている。もちろん、このような思いは一方において、ある種の読書の愉悦(ユエツ)であるけれども、その一方において、この小説が明治三十八年(1905年)から翌年に掛けて、二年近くも「讀賣新聞」に連載され、当時としては「圧倒的な人気を集めた」(和田芳惠「小栗風葉入門」)小説であったことに対して、また、それは「大学生と女子学生が中心人物なので、若い読者層が多く支持した」(同上)小説であったことに対して、おそらく君は当初、意外な感じを催さざるをえないのではなかろうか。でも、そのような感じも数分後は、この小説自体が打ち消してくれるであろうが。

ちなみに、この『靑春』という小説を書いている時期、小栗風葉は数えの31歳から32歳であり、僕が前回も前々回も、君に伝えておいたように、彼が尾崎紅葉(おざき・こうよう)の自宅の玄関番になってから、ちょうど十年後の時点に当たっている。また、そこから彼が德田秋聲(とくだ・しゅうせい)や柳川春葉(やながわ・しゅんよう)や、あるいは田中涼葉(たなか・りょうよう)と一緒になって「詩星堂」を創設し、新進作家として活躍し始めるのが明治二十九年(1896年)の段階である。そして、言ってみれば、その「詩星堂」の青春が終わりを告げて、彼が一戸を構え、独立するに至るのが明治三十二年(1899年)であり、その翌年には当時の、愛知県豊橋町の加藤家の婿養子となり、結婚をすると共に、その姓を加藤(小栗磯平→小栗磯夫→加藤磯夫)に改めることにもなる。

もっとも、この結婚生活が順調に営まれていたのは、ごく僅かな期間のようであって、結果的に「文士として名を成し、郷里の名家の婿になった」(伊藤整『日本文壇史(6)』1960年、講談社)にも拘らず、また、その妻(籌子=かずこ)が「文芸を愛好する女性で、二人は文学を通して近づいた」(同上)にも拘らず、とうとう小栗風葉は妻と、生まれて一年半余りの長男(丈夫=たけお)を郷里に帰し、別居生活を始めることになる。この時点が、明治三十七年(1904年)の秋であるから、裏を返せば、そのような別居生活の中で『靑春』は、翌年の春から「春之巻」(3月~7月)が、さらに夏から「夏之巻」(7月~1月)が書き継がれ、これが完結するのは明治三十九年(1906年)の「秋之巻」(1月~11月)であり、この連載の間には、いちおう結婚生活も修復の兆しを見せることになる。

とは言っても、すでに僕が君に、このブログ(第178回:小栗風葉論)で報告を済ませておいた通り、彼の愛(まな=真)弟子の眞山靑果(まやま・せいか)が、その門に入るのは折しも、この『靑春』の連載の最中であったし、ひいては後者が代作(!)で、あの「シャーロック・ホームズ」シリーズの第一作(コナン・ドイル『緋色の研究』)を、風葉散人(ふうよう・さんじん)訳『神通力』(じんつうりき)と題して、これまた「讀賣新聞」に連載するのは明治三十九年(1906年)のことであり、この点も僕は、このブログ(第179回:小栗風葉論・拾遺)において、はなはだアケスケな話を君に、しておいた訳である。――と、ここまで話が来れば、このような事態を惹き起こしたのは小栗風葉の自堕落(ジダラク)な性格や、とりわけ酒乱や酒狂とも評しうる、酒癖の悪さであった。

このような酒癖の悪さについては、はなはだ印象的なエピソードを、前掲の伊藤整(いとう・せい)の『日本文壇史』が挿(さしはさ=差し挟)んでいて、なかなか興味深いので、これを僕は君にも、以下に披露しておくことにしよう。と言ったのは、明治三十四年(1901年)の年頭に、恒例の「硯友社」(けんゆうしゃ)の新年会が催され、この年、数えの35歳になった尾崎紅葉(おざき・こうよう)を中心にして、この結社の面々が顔を揃え、宴も酣(たけなわ=闌)になった折、呆れたことに「新婚三ケ月目の小栗風葉が、すっかり酔って、異様に据〔すわ〕った目つきで座敷のあちこちを〔、〕ふらふらと歩きまわっていた」と思ったら、やがて柳川春葉の「頬っぺたを舐め、手を舐めた」り、今度は突然、先輩格の画家、武内桂舟(たけうち・けいしゅう)に「つかみかかった」りした次第。

 

紅葉は〔、〕それを見て憤然として立ち上り、小栗を桂舟から引き離して押し倒し、「馬鹿め、何をする!」と言って罵〔ののしり〕りはじめた。しかし乱酔した小栗は人の見さかいがつかなくなって、今度は紅葉に武者ぶりついた。自分に武者ぶりついた小栗を見て、紅葉は突然〔、〕涙をぽろぽろと流し、声を放って泣き出した。〔中略〕紅葉は、以前ならば、このような会合を楽しんで飽かない人間であったが、今では、気を使わなければならない人の群れる所に長座することが重荷になっていた。小栗が乱暴を働いたとき、彼の神経は〔、〕もはや〔、〕それに耐えることが出来なかった。

 

尾崎紅葉が亡くなったのは、この二年後の、明治三十六年(1903年)のことである。享年、数えの37歳。......今にして振り返れば、あまりにも短い生涯であると共に、あまりにも早い「硯友社文学の時代」の終わりであり、逆に、始まりでもあった。その意味において、もし尾崎紅葉が長生きをして、40歳代や50歳代を経験していたのなら、日本の文学の歴史は幾分(それとも、随分)変わったものになっていたのではないか知らん、と感じざるをえない点が多い。この点に関しては、僕は先日、橋本治(はしもと・おさむ)の『「自然主義」と呼ばれたもの達』(2013年、朝日新聞出版)を読んでいて、そこに「尾崎紅葉の死は、日本近代文学の黎明期に一つの区切りをつけるもの、あるいは、日本近代文学の十九世紀と二十世紀を分けるもの」と書かれていて、いかにも、と膝を打ったのである。

言い換えれば、日本の「近代文学」は現在、いわゆる「言文一致体」の成立過程に即して、辿り直され、語り直されているのが通常である。けれども、この「言文一致体」の成立過程に身を置き直して、そこで直接、歴史の歯車の回る音を聞き直してみれば、そこには尾崎紅葉にせよ、幸田露伴(こうだ・ろはん)にせよ、あるいは彼らに先立つ、坪内逍(つぼうち・しょうよう)にせよ、二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)にせよ、このような「言文一致体の人」には、なりきれなかった作家や、例えば尾崎紅葉のように、まさしく「言文一致体も〔、〕さっさとマスター出来るし、それを捨てることも出来る」才能を持ち、そのような「いくつもある日本語文体の一つ」でしかない「言文一致体」と関わり合った作家の方が、はるかに日本の「近代文学」の主流に、位置していたのであった。

この事実は、君や僕が日本の「近代文学」を考える時、決して忘れてはならない事実であろうし、目下、僕が机の上に置いている、小栗風葉の『靑春』のページを繙(ひもと=紐解)く際にも、はなはだ気を配っている点である。なぜなら、このような点が抜け落ちてしまうと、いとも容易に『靑春』は、いたって時代遅れの、古臭い小説に姿を変えてしまい、この小説が当時、どれほど多くの読者を獲得し、その読者(とりわけ、若者)の胸を、ドキドキさせたり、ハラハラさせたりした小説であるのかが、見え難くなってしまうからである。要するに、この小説が作者自身の意図を、はるかに超えて、いわゆる「硯友社文学の時代」から「自然主義文学の時代」へと、大きく時代の転換期を迎えた折に出現し、そこに屹立する作品であることが、君や僕は、分からなくなってしまうのである。

 

硯友社文学と言えば、江戸の戯作〔げさく〕のあり方を否定(・・)しない(・・・)、明治日本の一大文学会派である。はっきり言ってしまえば、その中心にいた尾崎紅葉が明治三十六年(一九〇三)に死亡するまで、硯友社系の文学が明治日本の主流(メジャー)だったのである。ところが、順当な日本の近代文学史は、ひたすらに「西洋風の近代を達成する方向」を追い求めるから、明治十八年〔一八八五〕から明治三十六年までの間「主流」であり続けた硯友社系の文学を「後ろ向き」のようなものに考えて、それが近代文学史の中で〔、〕どのような役割を果したのかを〔、〕はっきりさせてくれない。

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