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酒と涙と男と女 ――「教養」の来た道(183) 天野雅郎

はなはだ大雑把な物言いで、いたって恐縮であるが、昔の日本人は今の日本人よりも、はるかに能(よ=善)く泣いていたらしい。――と、このようなことを高校生の頃、受験勉強の代わりに読み耽(ふけ=更)っていた、司馬遼太郎(しば・りょうたろう)が書いていて、なるほど、と妙に得心した記憶がある。とは言っても、そのこと自体を司馬遼太郎が、どこで書いていたのか......それどころか、本当に書いていたのかも、実に好い加減な話であって、ちょっと我が家(天野図書館)の本棚を捜(さが=探)してみようか知らん、という気が起きない訳ではないけれども、夜も暗い内に明け方から、ガサガサ、ゴソゴソ、家(や)捜し同然の振る舞いに及ぶのも気が退(ひ)けるなあ、と嘆きつつ、ふと机の横の本の列に目を遣(や)ると、いました、いました、何とも頼もしい救世主が。

 

人間が泣くということの歴史。こんな頓狂(とんきょう)な問題を私が提出したのも、必ずしも閑人(ひまじん)の睡気(ねむけ)ざましとのみは言われない。そのわけは、是〔これ〕が最近五十年百年の社会生活において、非常に激変した一事項であり、また我々の関心を〔、〕もたずには居られない一現象であり、しかも記録文書の自然の登録に任(まか)せておいては、誤った推量に導かれるという経験を、我々は持っているからである。〔中略・改行〕人が泣くということは、近年〔、〕著しく少なくなっているのである。〔中略〕大人の泣かなくなったのは勿論、子供も泣く回数が〔、〕だんだんと少なくなって行くようである。

 

と、このように柳田國男(やなぎた・くにお)が『不幸なる芸術・笑の本願』(1979年、岩波文庫)の中の、その名の通りの「涕泣〔ていきゅう〕史談」で述べているのは、昭和十六年(1941年)の「国民学術協会公開講座」の壇上である。したがって、この時点から「最近五十年百年」を遡ると、ちょうど100年前は江戸時代の、いわゆる「天保の改革」の始まった、天保十二年(1841年)に当たっていて、その渦中で「蛮社〔ばんしゃ→蛮学社中=洋学仲間〕の獄」の犠牲となり、渡邊崋山(わたなべ・かざん)が自刃をして果てることになる。また、そこから次に50年を差し引くと、今度は内村鑑三(うちむら・かんぞう)の「不敬事件」が起き、どんどん教育の自由や信仰の自由が日本(と言うよりも、大日本帝国)という国から失われていった、明治二十四年(1891年)に当たっている。

ちなみに、この年(明治二十四年)は文学の歴史においても、例えば坪内逍遙(つぼうち・しょうよう)を中心にして『早稲田文學』が創刊されたり、この文芸雑誌を舞台にして、いわゆる「没理想論争」(臼井吉見『近代文学論争』1975年、筑摩叢書)が彼と森鷗外(もり・おうがい)との間に惹き起こされたり、あるいは幸田露伴(こうだ・ろはん)の『五重塔』の連載が、開始されたりしていて、私たちの国の「近代文学」の成立を考える時には、きわめて重要な一年であったことが分かる。そして、そこに僕が以前、このブログ(第180回:田舎者め!)で君に伝えておいた、あの尾崎紅葉(おざき・こうよう)の牛門(牛込区横寺町)への引っ越しや結婚や、さらには泉鏡花(いずみ・きょうか)の入門、小栗風葉(おぐり・ふうよう)と尾崎紅葉の最初の対面が、重なり合っていく。

このようにして振り返ると、明治十八年(1885年)に坪内逍遙の『小説真髄』と『当世書生質』が出版され、それに呼応し、鼓舞されるかのように――当時、いまだ数えの19歳に過ぎなかった、尾崎紅葉を筆頭とする若者たち(山田美妙・石橋思案・丸岡九華)が、日本で最初の文学結社(「硯友社」)を組織し、彼ら自身の手書き原稿(!)で回覧される、同人雑誌の『我多〔がらくた〕文庫』を発行するに至った時点から数えると、この段階(明治二十四年)で、ようやく7年の歳月が経っているに過ぎない訳である。おまけに、この『我多文庫』が当初の非売本から、公売本に姿を変えるのは、この3年後の、明治二十一年(1888年)のことであったから、それは尾崎紅葉に即して言えば、やっと彼が大学予備門(要するに、高等学校)を卒業し、帝国大学に入学する時点に当たっている。

言い換えれば、このようにして若い(young)......おそらく、若過ぎる(too young)と評しても構わない、彼らの中から日本の「近代文学」はスタートを切り、切らざるをえなかったのであって、そのことが後年、彼らの一人一人に複雑な、人間関係の重荷を背負い込ませることになる。端的に言えば、それは彼らが成長し、いわゆる「青春」期から「朱夏」期へと、ひいては「白秋」期や「玄冬」期へと、まさしく大人(おとな=乙名)になっていく過程で、引き受けざるをえなかった、例えば親子関係や恋愛関係や、あるいは夫婦関係や師弟関係であり、そのような人間関係を通じて、彼らは結果的に、背負い込み切れないものを背負い込み、生活面でも文学面でも、その思想や表現の問題に突き当たり、悩み、多くの場合は、これを放蕩(ホウトウ)という手段によって解消しようとする。

その最たるものが、言わずと知れた「酒と女」であって――さしずめ小栗風葉などは典型的な、代表的な放蕩者の一面を兼ね備えていたことにもなるであろう。事実、このような頽廃的な生活が行き詰まり、破綻をし、とうとう彼が東京を後にして、郷里(愛知県)の豊橋に帰るのは、明治四十二年(1909年)のことである。これ以降、亡くなる年(大正十五年→1926年)までの17年ばかりを、彼は東京を離れて、暮らした訳であり、その間には長男の死や、養父の死や実父の死が、彼を見舞うことにもなる。ちなみに、僕が以前、このブログ(第177回:バカヤロウ!)で君に伝えておいた、あの「漱石山房」での泥酔騒動も、この間の出来事であり、それが多分、小栗風葉の長男の死と重なり合う時期であったことに対して、いささか僕はシンミリと、この酔態を受け止めざるをえない次第。

ところで、このようにして小栗風葉は数えの52歳で、その生涯を閉じることになるのであるが、どうやら死因も多年の飲酒に起因する、心臓や腎臓の疾患であったらしい。翻れば......彼が数えの15歳の折、はじめて実父に連れられて、海路で東京に向かったのは明治二十二年(1889年)のことであったから、そこから彼が東京で過ごした歳月は、長く見積もっても20年に満たない。が、そこには彼の10代の後半から30代の前半が挿(さしはさ=差し挟)まれており、言ってみれば、人生の一番、多感な時期であったことは疑いがないし、その時期が前回、君にエピソードとして披露しておいた、彼の結婚を分水嶺とするものであったことも疑いがない。その繋がりにおいて、その結婚の直後の小栗風葉に当てて、尾崎紅葉が書き送った手紙の文面を、以下、僕は君に紹介しておくことにしよう。

 

扨〔さて〕改めて申候迄〔まで〕はなけれど 今迄とは違ひ候身の上に候へば 尤〔もっと〕も品行を大事に軽卒の事無きやう 留意肝要に候 酒狂は固〔もと〕よりの儀に候へども 其〔その〕他交友の間 目下に臨む工合〔ぐあい〕長上に対する心得等より一切世間に処して其名を愧〔はず〕かしめざる心掛 即ち文学者としての品位を保ち人間としての道を立つる事 朝夕念頭に放たず 精励〔せいれい〕可有やう 希望に不堪候〔改行・中略〕世間に名を成し人々に敬るには身持と心持とが大事に候へば 此〔この〕点十分御考可被成 青年時代のわるさも今が年貢のをさめ時にて 向後を謹み面目を一新し 人を率る器量を揚げ候やう 懇々〔こんこん〕頼入〔たのみいり〕候

 

このような手紙を、尾崎紅葉は長女の「熱病」の枕元で書き、豊橋で結婚式を挙げた直後の、小栗風葉に送っている。――その行為を、はたして風葉自身は、どのような思いで受け止めるに至ったのか、残念ながら伊藤整(いとう・せい)の『日本文壇史(6)』(1960年、講談社)は、何も報告してはくれていないけれども、この手紙の次の段に置かれているのが、例の「涙をぽろぽろと流し、声を放って泣き出した」尾崎紅葉の姿であった。一応、この場では君の読み易さを考慮して、幾つか振り仮名を挿んでおいたけれども、あまりに度を超えると今度は、この手紙の手紙らしさが、失われてしまうから、当時の漢文や文語の表記は、そのままの状態にしておいたので、ご容赦を。......でも、このような手紙を何時の時分から、君や僕は書いたり、読んだり、出来なくなってしまったのかなあ。

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