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文学的な、余りに文学的な ――「教養」の来た道(185) 天野雅郎

もし人間に、いわゆる文学的(literary)な人間がいるとすれば、それは単純に「文学の趣があるさま。文学に関わるさま」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)を指し示しているのではなくて、その「趣」(おもむき=赴→面向)や「関わるさま」が具体的に、君や僕に対して「文学」とは何であるのかを、まさしく「み〔身=実〕を以って」――「①直接、自分のからだで。一身を投げうって」(同上)しかも「②危〔あやう〕く。かろうじて。やっとのことで」(同上)指し示しているからに他なるまい。そうでなければ、例えば詩歌や小説を読んだり、書いたりしている人間は、そのまま無条件に文学的な人間と見なされるであろうし、いわんや大学で、君や僕の周囲に幾らでも(幾らかは?)いる、文学を専攻している学生や、文学を研究している教員は全員、文学的であることになる。

と言い出すと、そんな馬鹿な(!)と、たちまち君は僕と一緒に、声を荒げてくれるに違いないし、場合によっては大いに、憤(いきどお=息労)りの叫びを発してくれることすら、僕は君に期待しても構わないのではないか知らん。とは言っても、ひょっとすると君は冷静に、そのような文学は「文学」と呼ぶよりも、むしろ「文学研究」と称するべきものであり、詩歌や小説を勉強することは、そのまま文学ではないし、文学である必要もなければ、文学であっては困るのです......と、すまし顔で、この二つの文学を切り離して考える、とても大人びた頭の持ち主であるのかも知れないね。なるほど、そのように言われてみれば、たしかに僕の勉強している哲学も、ほとんど哲学的ではない人間が、寄って集(たか)って哲学を、専攻したり、研究したり、しているのが通常の状態であろう。

でも、それで本当に哲学や文学は、哲学の果たすべき役目を果たしており、文学の果たすべき役目を果たしているのであろうか、という疑問が延々、僕には大学生の頃から、付き纏(まと)って、離れないのである。それどころか、そのような疑問は近年、このようにして哲学的ではない哲学や、文学的ではない文学を、目にしたり、耳にしたりする機会が増えてくると、ますます、いよいよ、僕の中で膨らんできて――二進(にっち)も三進(さっち)も、いかなくなってしまうのであった。そして、そのような時に僕は、いつも哲学的であることを簡潔に、文学的であることを明瞭に、教えてくれる哲学者や文学者の顔を思い浮かべ、彼ら(彼女ら)の作品を、とにかく無性に繙(ひもと=紐解)きたくなってしまうのである。残念ながら、その声を直(じか)に聞くことは、叶わないので。

さて、このように書き始めると、このブログで目下、僕が君に話を聴いて貰(もら)っている、小栗風葉(おぐり・ふうよう)は文学的な作家(すなわち、小説家)なのであろうか、という疑問が湧き起こってくるに違いない。が、そのような疑問に対しては、さしあたり僕は単純に、彼は文学的な作家である、と答えておけば充分であろう。なぜなら、彼の代表作である『靑春』を読むと、そこには文学的と評することしか出来ないような、あれこれ文字(letter)や、その文字を組み合わせた、文章や文体に関わる、すさまじい努力の跡が残されていて、このような努力を抜きにして、そもそも文学的であることは成り立ちえないであろうから。その意味において、あくまで文学的であることは文字や、文章や文体の次元において成り立ちうるものであり、それ以上でも、それ以下でもない。

言い換えれば、このようにして「文学」という営みが成り立つためには、その成立基盤に文字と称される、まさしく「点や線の組み合わせによって言語を記号化したもの」(『日本国語大辞典』)が条件上、求められるのであり、裏を返せば、そのような文字を伴わない文学は、結果的に文学以前の文学であったり、文学以外の文学であったり、するのであって、それを文学と呼ぶことすら、それほど(まったく?)必要ないのではないか知らん、と僕個人は思うけれども、さて君は、いかがであろう。実際、例えば現在の大学でも、いわゆる文学部には文学と、さらに哲学と歴史学が含まれるのが通例であり、そこに音楽における歌曲や、演劇における戯曲は、属さないのが普通であって、それらは文字どおりに、歌(song)や曲(music)であることが第一義であり、同時に生命線でもあったろう。

ちなみに、このような文学部の成立は、私たちの国の場合、遡れば明治十年(1877年)の東京大学の創設と、重なり合う出来事であったけれども、この時点での文学部は、いわゆる「理系」に対する「文系」という意味合いの強い、端的に言えば、理学部に対する呼称であった。ところが、これが明治十九年(1886年)の帝国大学になると、それまでの「和漢文学科」が枝分かれをして、にわかに文学部の中には「和文学科」と「漢文学科」が誕生し、これらが哲学とは違い、歴史学や政治学や経済学からも切り離された、独自の領域として組織し直されることになる。そして、そこに続けて、さらに明治二十年(1887年)には「英吉利〔イギリス〕文学科」と「独逸〔ドイツ〕文学科」が、明治二十二年(1889年)には「仏蘭西〔フランス〕文学科」が、それぞれ上乗せされることになった次第。

この点については、例えば磯田光一(いそだ・こういち)の『鹿鳴館の系譜』(1983年、文藝春秋)の冒頭に、まさしく「訳語「文学」の誕生」の章が置かれていて、かつて僕自身も随分と、この「近代日本文芸史誌」の、お世話になった覚えがある。要するに、このようにして日本語の中に「文学」という語や、あるいは「哲学」という語が持ち込まれ、それらが普及し、定着していく過程は、ちょうど明治十六年(1883年)に「鹿鳴館」が完成し、そこに「皮相な欧化主義」と「ナショナリズム」が絡まり合い、いかにもチグハグな、滑稽な姿や形をした、私たちの国の「近代化」(modernization)が進行していくプロセスと、まったく共時的な出来事であり、しかも、それが「見方を少し変えただけで喜劇とばかりは〔、〕いいきれない」点に、私たちの国の、固有の「悲哀」が隠されている。

 

鹿鳴館が〔、〕どう批判されようと、それは生まれたばかりの近代国家が〔、〕やむなく試みなければならなかった化粧であった。悲哀をこらえて、無理な背伸びをしようとする健気(けなげ)な志〔こころざし=心指〕なしに、あのような建物が東京に建てられるはずがなかった。いま私の目には、鹿鳴館の舞踏会の華やかさの〔、〕うしろにあった悲哀は、きわめてアジア的な悲哀にみえる。その悲哀を共有することなしに、近代日本を語ることができるであろうか。狭義の鹿鳴館の時代は終っても、外来文化との接触の生んだドラマは〔、〕終りはしなかった。

 

と、このような磯田光一の文中の、とりわけ「化粧」や「悲哀」という語を見ると、ふと僕の目には小栗風葉の、あの『靑春』の「厚化粧」(片岡良一)をした、いかにも「田舎者の硯友社文学」と蔑まれ兼ねない......彼の「中途半端さと特異性と」が想い起こされ、それが同時に、また彼の「痛ましい努力」(中村光夫)や、そこから彼が手に入れた、束の間の「華々しい成功」と、それにも拘らず、やがて彼が引き受けざるをえなかった、実に「不当なほど悲惨な忘却」が、二重写しになってしまうのである。おまけに、このような「痛ましい努力」は現在でも、どこかで延々と繰り返されており、それが「成功」と「忘却」の間の、スレスレの所で営まれ続けている以上、私たちの国の「文学」や「哲学」が常に、同じ「悲哀」に満ち満ちているのは、どうやら致し方のないことであるらしい。

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