ホームメッセージ『靑春』を読む(第一回)――「教養」の来た道(187) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

『靑春』を読む(第一回)――「教養」の来た道(187) 天野雅郎

小栗風葉(おぐり・ふうよう)の『靑春』は、まず明治三十八年(1905年)に「読売新聞」に、3月から7月まで「春之巻」が、続いて7月から翌年の1月まで「夏之巻」が、さらに同年の1月から11月まで「秋之巻」が、それぞれ連続で掲載され、これが順次、新聞の連載を終えると共に単行本になって、春陽堂から刊行されていった訳であって、その三巻本の『靑春』が出揃うのは、僕が前回、君に報告を済ませておいたように、ちょうど今から110年前(明治三十九年→1906年)の、秋(11月)のことになる。と言うことは、この『靑春』という小説は名前自体からして、そもそも不可思議な、青春の中に青い春(=青春)と赤い夏(=朱夏)と白い秋(=白秋)を包み込み、唯一、黒い冬(=玄冬)だけは除外した、いたって矛盾に満ちた構成の小説であったことが、明らかになってくる。

とは言っても、このようにして「青春」という語が中国起源(ひいては、中国渡来)の「(五行思想で、中国において、青色を春に配するところから)春の季節。陽春。芳春。青陽」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)という本来の、第一の意味を離れて、そこから「(年ごとに春がめぐるところから)年を重ねること。歳月。星霜〔セイソウ〕。また、年齢。よわい」(同上)という第二の意味へと、あるいは「人生の春に〔、〕たとえられる若い時代。年の〔、〕わかいこと。青年。青年時代」(同上)という第三の意味へと、次第次第に逸脱を繰り返していったのが、言ってみれば、この「青春」という語が私たちの国で、もっぱら中国語(Chinese=中国人)ではなく日本語(Japanese=日本人)として、辿った道程(音読→ドウテイ、訓読→みちのり)であったことは、疑いがない。

したがって、この第三の意味の「青春」を遡れば、これまた『日本国語大辞典』の用例を踏まえると、まず中国の李白(リ・ハク)の漢詩(「送李青帰華陽川詩」)に由来し、それが『懐風藻』(天平勝宝三年→751年)において、すでに刀利宣令(とり・の・みのり)の五言律詩(「賀五八年」)の冒頭に登場し、そこから中世へと、さらには近世へと、この「青春」という語が受け継がれていった様子が窺われうる。その意味において、この「青春」という語を私たちの国で、どうやら最初に使用した人物として......おそらく歴史に名を留めるであろう、刀利宣令が名前自体からして、いかにも日本人らしくない、いわゆる渡来人や帰化人の姿を留めているのは、はなはだ印象的であるし、この人物が同時に、土理宣令や刀理宣令という表記で『万葉集』に姿を見せている点も、想い起こされよう。

要するに、このようにして「青春」という語は、そこに小栗風葉の『靑春』や、夏目漱石(なつめ・そうせき)の『三四郎』(明治四十一年→1908年)や、あるいは森鷗外(もり・おうがい)の『青年』(明治四十三年→1910年)を持ち出すまでもなく、私たちの国では古代以降、延々と繰り返されてきた、ある時には和漢折衷というスタイルの、ある時には和洋折衷というスタイルの、その時、その時の「折衷主義」(eclecticism)が、はなはだ典型的な姿を刻み出したものでも、ありえた訳である。ちなみに、先刻の刀利宣令は日本風に、これを「とり・の・のぶよし」と読むことも可能であろうし、そのまま音読して、これを「とり・の・せんみょう」と読んでも、いっこうに構わないはずであるけれども、その点は抜きにして、ここでは彼の漢詩と和歌を、まさしく折衷に並べておこう。

 

  縦賞青春日(縦賞す 青春の日)

  相期白髪年(相期す 白髪の年)

  清生百万聖(清は百万に聖を生み)

  岳出半千賢(岳は半千に賢を出す)

  下宴当時宅(宴を下す 当時の宅)

  披雲楽広天(雲を披く 楽広の天)

  玆時尽清素(この時 ことごとく清素)

  何用子雲玄(なんぞ子雲が玄を用ゐむ)

  〔※〕江口孝夫(訳注)『懐風藻』(2000年、講談社学術文庫)

 

  み吉野の/滝の白波/知らねども/語りし告(=継)げば/古(いにしへ)念(おも)ほゆ(『万葉集』巻第三、313)

  物部(もののふ)の/石瀬(いはせ=磐瀬)の社(もり)の/霍公鳥(ほととぎす)/今も鳴かぬか/山の常影(とかげ)に(同上、巻第八、1470)

 

さて、このようにして小栗風葉の、今回は『靑春』読む(第一回)という表題で、このブログはスタートを切っているにも拘らず、なぜ『靑春』という「小説」(すなわち、近代文学)ではなく、むしろ「漢詩」や「和歌」という中国の、あるいは日本の古典文学を引き合いに出し、話は進んでいるのか知らん――と訝(いぶか)しく思っている君は、ほぼ確実に、小栗風葉の『靑春』の1ページも(......^^;)これまで捲(めく)ったことがないに違いない。と、このように決め付けるのは、いかにも失礼千万と、君は感じているかも知れないが、論より証拠、これから君が小栗風葉の、まさしく『靑春』の1ページ目を開くならば、そこに載せられているのは主人公で、東京帝国大学(「文科大学」)の一年生であった、関欽哉(せき・きんや)の作った「新体詩」以外の、何物でもなかったはず。

ちなみに、その「新体詩」を『日本国語大辞典』で引くと、そこには次のような語釈が置かれているから、これも君の一覧に供したく、以下に掲げておくことにする。――「主として、明治末期に口語詩が起こる以前の明治文語詩をさす。外山正一〔とやま・まさかず(→しょういち)〕らによる「新体詩抄」に始まり、北村透谷〔きたむら・とうこく〕・島崎藤村〔しまざき・とうそん〕・土井晩翠〔つちい(→どい)・ばんすい〕・蒲原有明〔かんばら・ありあけ〕・薄田泣菫〔すすきだ・きゅうきん〕らによって発展し、日本近代詩の源となった」。なお、このような「新体詩」が従来の、旧式の「漢詩」に対抗し、反抗する呼び名であったことは、そのまま『靑春』の挿話にも取り入れられており、これが主人公の世代と、その親世代を切り離す、わかりやすい目印であったことは一目瞭然である。

が、このようにして「漢詩」を伝統的に、逆に「詩」と称し、それとは違う「詩」(すなわち、新体詩)が存在することなど、まったく頭に入っていない世代......この『靑春』の登場人物で言えば、主人公の保証人、香浦尚徳(かうら・なおのり)のような世代が、それでは中国的な、あるいは日本的な文化や教養の、保守的な継承者でありえたのかと言えば、それは大きな間違いであるから、話は複雑である。事実、このようにして「漢詩文」を「文」と思い込み、いわゆる「文科大学」は「漢文科」や、せいぜい「和文科」の研究の場所と考えている、どうやら「見た所〔、〕最〔も〕う六十近くの老紳士」が、その「半白〔はんぱく〕の頭を短く刈込んで、厳めしい真白な口髯」を生やし、その「素足にスリッパを引掛けて、薫の強いシガアを絶間無く燻(くゆ)らして居る」のであったから。

そして、そのような彼の大邸宅の、まさしく「室内は昼を欺く空気ランプの光〔、〕花模様のカアペットに照り栄えて、純陽(じゅんよう)夏野〔なつの〕の如き鮮かな輝(かがやき)に満たされた中に、テエブルの上の鉢植の匂菫(においすみれ)は、ビイルの香(か)や、莨(たばこ)の煙や、嬌(なまめか)かしい香水の匂と相〔あい〕蒸熱(いき)れて、ストオブの活気に軽(かろ)く瞑眩(めいげん)を覚ゆるばかり暖い西洋間」で――と、ここまで君は辛抱強く、この110年前の「青春小説」を読み通すことが出来た側であろうか。ともかく、その「西洋間」で深々と、この『靑春』の主人公は「若い才有る女性等(にょしょうら)が崇拝の瞳に仰がれながら、我と我が詩想の麗しい幻影を追って空(うっ)とりと夢みるような」恍惚感に、ひたりきっていたのである。それと言うのも、その直前に彼は、自作自演で、次のような「新体詩」の「傑作」を朗読していたので。

 

  ...............うつし世の

  うつつの歓楽(かんらく)今さめて、

  ああ、暁の夢に見し

  常世(とこよ)の浄楽(じょうらく)、憬(あくが)るるかな。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University