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映画の発見 ――「教養」の来た道(196) 天野雅郎

君は日本に「映画の日」と呼ばれる記念日(anniversary=周年祭)があることを、知っていたであろうか? いつものように『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引くと、そこには「日本の映画界の記念日で、一二月一日。日本における映画の初公開(明治二九年(一八九六)一一月末)を記念する」と述べられていて、この日が今から120年前に、当時の神戸の外国人居留地にあった、いわゆる「神戸倶楽部」(→神戸外国倶楽部)で日本初の、映画の上映会が催されたのを祝して、選定された「記念日」であったことが分かる。とは言っても、実際に映画が上映されたのは「一一月末」(25日~29日)と、上記の『日本国語大辞典』の語釈にもあるし、この日を「映画の日」という「記念日」に選定したのも、あくまで「日本の映画界」(日本映画連合会→日本映画製作者連盟)であった次第。

もっとも、この「映画の日」が「記念日」になったのは、ちょうど「映画」の日本初上陸から60年後(昭和三十一年→1956年)のことであるから、それが「還暦」という意味では、頃合(ころあい)の好い「記念日」の選定であったことにはなるであろう。が、この折に上映されたのはアメリカで、あの「発明王」のエジソンが考案した、キネトスコープ(kinetoscope)のことであるから、君や僕が現在、もっぱら「映画」の名で呼んでいる、こちらはフランスのリュミエール兄弟が発明した、シネマトグラフ(cinematograph)とは違う、個人個人の覗眼鏡(のぞきめがね)式の装置であった訳である。とは言っても、このシネマトグラフ(=映写幕〔スクリーン〕投影式)の方も、翌年(明治三十年→1897年)の1月に、当時の「京都電燈」が同地で上映しているから、その時間差は僅かである。

要するに、このようにして「映画」は日本人の、日常生活の中に入り込んできたのであるが、そこから120年ばかりの歳月を経ると、あれやこれやと「映画」のことで、それまで常識(common sense)であったはずのものが、そのまま「共通感覚」とは言えないものに姿を変えてしまうのも、致し方がないのかも知れないね。実際、僕自身も最近、講義中に「映画」の話をする機会が多く、ついつい調子に乗って、いろいろ昔話を始めていると――あれあれ、至る所から得体の知れない、珍糞漢糞(チンプンカンプン)な視線を送られていることに気が付いて、みずから話の腰を折ってしまうことも度々である。と言ったのは、つい先日も僕は、ある授業で「ニュース映画」のことを話題にしていて、それが結果的に、まるで話題になっていないことを発見し、愕然(ガクゼン)としたからある。

でも、よく考えてみれば、すでに20世紀の末年には製作を打ち切っている、この「ニュース映画」のことを君が知らなくても、それは当然であり、そのこと自体を幾分、残念に感じながらも......つい先刻まで僕は、この「ニュース映画」の黄金時代であった、昭和十五年(1940年)から昭和二十年(1945年)までの、その名の通りに「開戦前夜から終戦直後まで」の『別冊一億人の昭和史・日本ニュース映画史』(1977年、毎日新聞社)のページを捲(めく)っていると――何と、その第1号の「脱帽〔!〕天皇陛下・関西御巡幸」に続いて、そこに和歌山の「空閑地利用・戦時糧食運動」(第2号)の写真が載っているのを発見し、嬉しいような、悲しいような、曰く言い難い、気分に浸っている所である。また、そこには当時、次のような語り(ナレーション)の声が、重ね合わされていたらしい。

 

和歌の浦や紀ノ川近くの荒地に〔、〕数千の少年少女が汗と力で土を掘り起こし〔、〕見事な畑をつくりました〔。〕

春以来の努力がむくわれて〔、〕こんな立派なジャガイモがとれました〔。〕

 

さて、このような「ニュース映画」は元来、20世紀の初頭にフランスで、発案されたものとされているが、それが1910年代には日本に持ち込まれ、さかんに製作されるようになるのは1930年代に入ってからのことである。そして、それが文字どおりに映画館で、君や僕が目下、テレビやパソコンを通じて「テレビ・ニュース」や「インターネット・ニュース」を見るように、日常的に「ニュース映画」を見ていた時代が訪れる。しかも、それは今の君や僕が、ことさら「テレビ」や「インターネット」という道具立てを、これらの「ニュース」に宛がう必要がないのとは、まったく違い、この「ニュース映画」という語自体が従来の、既存の「新聞」(newspaper)の「ニュース」(news=新しい・知らせ)を上回り、乗り越える、実に尖鋭的(!)な呼び名であったことが、忘れられてはならない。

したがって、このような「ニュース映画」の第1号に、さきほどの「天皇陛下・関西御巡幸」の記事が選ばれているのは、偶々(たまたま)ではないし、このような「ニュース映画」が歴史上、最も重要な役割を演じたのも、ふたたび「開戦前夜から終戦直後まで」の、いわゆる「大東亜戦争」(→太平洋戦争)の渦中であって、実際、この戦時下においては映画館で、一般の映画の上映に先立って、このような「ニュース映画」の上映が義務づけられていたり、軍部(=陸軍省+海軍省)の検閲制度も設けられていたりした訳である。おまけに、おそらく君には信じ難いことであろうが、このような「ニュース映画」は戦後に至っても、例えば僕が少年期を過ごした、俗に言う高度経済成長期(1950年代後半~1970年代前半)の映画館では、いたって普通の光景として認知されていたのである。

事実、僕自身は子供の頃に、あたりまえに映画館で、その折々の「ニュース映画」を見ていた記憶があるし、それが政治や経済から、スポーツや芸能にまで、広く及ぶものであった覚えも、頭の中に残っている。その意味において、唐突ではあるが、例えば小栗風葉(おぐり・ふうよう)の『靑春』や島崎藤村(しまざき・とうそん)の『春』や、あるいは夏目漱石(なつめ・そうせき)の『三四郎』が書かれ、そこから日本の近代文学に、はじめて「青春小説」の黄金時代が訪れた際、それは同時に「新聞小説」の黄金時代であると共に、その背後にはヒタヒタと、むしろ「ニュース映画」の黄金時代が押し寄せていたことが、見逃されてはならないのである。なぜなら、そのことが分かっていないと、きっと君や僕は当時の、文学と映画の双方の機能と、その本質を、見誤るに違いないから。

論より証拠、そこから100年以上の時間が経ち、もはや「文学」も「映画」も等し並みに、どちらも現実性(reality)を欠いた、もっぱら虚構(fiction)であるかのように......とりわけ「文学嫌い」や「映画嫌い」や、これらの芸術を理解し、享受する能力に乏しい側からは、見なされる時代が到来してしまっている。そうなると、いよいよ100年以上も前に「文学」と向かい合い、なかんずく「小説」という媒体(メディア)の中に言語表現の活路を求めた、当時の作家(と言うよりも、文士)たちの悪戦苦闘は、何のことやら訳の分からないものになってしまい、それこそ「チンプンカンプン」な、江戸時代の「儒者の用いた漢語」(『日本国語大辞典』)や、さらには「外国人のことばの口まね」(同上)のような蔑(さげすみ=下墨)を受け、冷やかしの視線を浴びるのが落ちである。

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