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ニュース映画を、もう一度 ――「教養」の来た道(197) 天野雅郎

前回、僕は君に「映画の発見」と題して、いわゆる「二ユース映画」の話を、あれやこれやと聴いて貰(もら)ったのであるが、ふと思い立って、この語を今回は、まず『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で引いてみると、そこには「時事的な出来事を報道するため、定期的に製作・上映される映画。ニュース」という語釈と並んで、その用例には宮本百合子(みやもと・ゆりこ)の『三月の第四日曜』(昭和十五年→1940年)の一節(「ニュース映画に〈略〉息子や兄の顔が映ってゐて」)が挙げられている。......と言う訳で、ここにも「ニュース映画」の黄金時代であった、あの「開戦前夜から終戦直後まで」(『別冊一億人の昭和史・日本ニュース映画史』1977年、毎日新聞社)の、とりわけ「紀元二千六百年」(=昭和十五年!)に因(ちな)んだ、きな臭い時代の雰囲気が漂っている。

なお、この『日本ニュース映画史』の冒頭には、この当時の状況が次のように説明されていて、これまで君は「ニュース映画」の歴史や、その実態を、ほとんど(まったく?)知らなかったであろうし、このような叙述も現時点の君には、ある程度の参考になりうるであろうから、これを以下に掲載しておくことにしよう。――「太平洋戦争の危機が徐々に近づきはじめた昭和十五年(一九四〇年)四月、それまで個々にニュース映画を発行していた大毎、東日、朝日、読売、同盟各社のニュース映画部門は、「映画法」(昭和十三年十月施行)の趣旨に沿って統合され、社団法人〝日本ニュース映画社〟が設立された。そして六月十一日、日本ニュース第一号を発行した。このとき、各社の二ュースカメラマンたちが一斉に入社し、一時は一〇〇〇人を超えるスタッフを擁するようになった」。

ちなみに、大毎(だいまい)とあるのは大阪毎日新聞社の略称であり、通称であって、すでに大正十三年(1924年)には「大毎キネマニュース」として製作を開始していたものが、やがて昭和八年(1933年)には「大毎東日キネマニュース」と名を改め、さらに昭和十年(1935年)には「東日大毎国際ニュース」となって、この時点を迎えている。その意味において、私たちの国では遡ると、まったく同じ年(大正十三年)にスタートをし、これまた昭和九年(1934年)には「朝日世界ニュース」と名を改めていた、朝日新聞社系列の「ニュース映画」と共に、いちばん古い「ニュース映画」は毎日新聞社系列のものであったことになるし、この競争に最も遅れて、殿(しんがり)に加わったのは、昭和十二年(1937年)の読売新聞社系列と、さらに同盟通信社系列の「ニュース映画」であった。

そして、その翌年(昭和十三年→1938年)には上記の通り、映画法が公布され、これが施行されるのは翌年の、昭和十四年(1939年)のことになる。その結果、私たちの国の映画業界は、総包(そうぐるみ)で戦時体制に組み込まれることになり、映画会社の許認可制を始めとして、映画の製作に携わる者は、どのような職務であっても全員が、技能試験を受けたり、登録制度に従ったりしなくてはならない、何とも恐ろしい時代が訪れることになる。したがって、当然ながら軟弱(?)な、娯楽映画は忌避され、外国映画は排除され、逆に国策映画ばかりが強制され......その上に、僕が前回、君に伝えておいたように、映画の上映には軍部の検閲制度が設けられ、あらゆる映画の公開に先立って、映画館に行けば必ず、そこで「ニュース映画」を見ることが、義務づけられていた訳でもあった。

さて、このようにして「ニュース映画」は生まれ、そこから不幸にも、この当時の「暗黒時代」(dark age)の「日本映画」を象徴する、代表的な作品群ともなっていく訳であるが、もう少し、ここで先刻の『日本ニュース映画史』の叙述を踏まえて、これ以降の「ニュース映画」の歴史を辿り直しておくと、前掲のごとく昭和十五年(すなわち、紀元二千六百年)に誕生した「日本ニュース映画社」は、その翌年の「昭和十六年(一九四一年)さらに文化映画数社〔=東宝・松竹等々〕をも統合し、社団法人〝日本映画社〟となり、太平洋戦争ぼっ発とともに、特派員、あるいは陸、海軍報道班員として、広大な戦域を駆けめぐり、ニュース映画、戦記映画、文化映画の製作、撮影に当たった」のであり、この「日本映画社」が解散するのは、ようやく私たちの国が、戦後を迎えた直後であった。

もっとも、その段階で解散したのは、戦前の社団法人の「日本映画社」であって、この「日本映画社」という呼び名は戦後に至っても、今度は株式会社という形で受け継がれ、おまけに昭和二十六年(1951年)には東宝(=東京宝塚)の出資によって、さらに「日本映画新社」と名を改めることになるし、俗に言う高度経済成長期には、引き続き朝日新聞社と提携し、日本中の映画館に「朝日ニュース」という「ニュース映画」を、配給していた訳である。と言うことは、僕が子供の時分、映画館で目にし、耳にしていた「ニュース映画」は、この「朝日ニュース」に他ならない訳であり――そう言えば、たしかに僕が東宝映画の、例えば怪獣映画や、いわゆる「クレージー映画」や「若大将シリーズ」を見た折に、決まって流れていたのは「朝日ニュース」であったことが想い起こされてくる。

ところで、実は今回、もう一度、僕が君に「ニュース映画」の話をしようかな、と思い立ったのは、これまで述べてきた「ニュース映画」の歴史の中で、おそらく重要な、かなり画期的(エポック・メーキング)な位置を占めるであろう論稿を、あの寺田寅彦(てらだ・とらひこ)が、遺(のこ)してくれているからである。この論稿は、かつて昭和八年(1933年)に映画評論雑誌(『映画評論』)に掲載され、その名の通りの「ニュース映画と新聞記事」と題されているけれども、すでに述べたように、この昭和八年という年は大毎(=大阪毎日新聞社)の「ニュース映画」が「大毎東日キネマニュース」と名を改めたり、さらに翌年には朝日新聞社の「朝日世界ニュース」も加わったりして、私たちの国の「ニュース映画」が本格的な、胎動を始める年であったことが忘れられてはならない。

その意味において、この段階で寺田寅彦が、この時期の「ニュース映画」に多大の関心を寄せ、それが従来の「新聞記事」の陥りがちな、はなはだ「紋切り型」の思考方法や、いたって「抽象的」な表現手段を乗り越える、新しい「発見」に繋がる可能性を指摘していたのは、当時としては相当、先見の明に満ちた見解であったはずである。が、このようにして「読者の官能的〔、〕印象的な連想を刺激するような実感的表象は〔、〕ほとんど絶無であると言っても」よく、悪くすると「読者たる人間の頭脳の活動を次第次第に萎縮(いしゅく)させ〔、〕その官能の効果を麻痺(まひ)させる」ことにもなりかねない、と寺田寅彦の批判した......その批判自体が皮肉にも、今度は「新聞記事」から「ニュース映画」へと向かうのは、何と高々、七年後のことであったのであるから、驚きである。

 

われわれは新聞の概念的社会記事から人間界自然界における新しき何物かを発見しうる見込みは〔、〕ほとんど皆無と言ってよい。しかるに一見なんでもないような市井の些事(さじ)を写したニュース映画を見ているときに、われわれおとなはもちろん、子供ですら、時々実に驚くような「発見」をする。それはそのはずである。映画は〔、〕ある意味で具象そのものであって、その中には発見されうべき真なるものの無限の宝庫が隠れているからである。〔中略・改行〕ニュース映画は〔、〕この意味において人間の頭脳の啓発に多大な役目をつとめるものでなけれなならない。この点にニュース映画の重大な使命が〔、〕かかっていると言わなければならない。

 

広い意味でのニュース映画によって、人間は全く新しい認識の器官を獲〔え〕たと言っても〔、〕はなはだしい過言ではない。そういう新しい人間としては〔、〕われわれはまだ〔、〕ほんの孩児(がいじ=幼児)のようなものである。したがって〔、〕期待されるものはニュース映画の将来である。演劇的映画などは一日一日に古くなっても、ニュース映画は日に日に新たに、永久に若き生命を保つであろうと思われる。そういう将来における新聞は〔、〕もはや社会欄なるものの大部分を喪失しているか、さもなければ、ほんとうの意味での「記事」となって、真に正確で啓発的な記述に変わってしまっているであろう。

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