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新聞紙・回顧録 ――「教養」の来た道(199) 天野雅郎

前回、僕が君に伝えておいたように、いわゆる「新聞」(シンブン→漢音、呉音→シンモン)という語は字面(音読→ジメン、訓読→じづら)の通りに、もともと「新しく聞いた話。新しい風聞。新しい話題」の意味であり、その起源を遡(さかのぼ=逆上)ると、中国の晩唐(9世紀後半)の、李咸用(リ・カンヨウ)の漢詩(「春日喜逢郷人劉松」)に由来するようである。――と、まず今回も『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「新聞」の語を引くと、このように述べられていて、この語が私たちの国では江戸時代の後期に、滝澤馬琴(たきざわ・ばきん)の書簡で使われたり、あるいは明治時代の初頭に、あの福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち)の『学問のすゝめ』の中で用いられたりするより前に、はるか今から1150年前後も昔に、すでに中国では登場済みの語であったことが分かる。

と言うことは、この語が現在のような形で、一方では「新聞紙」の略語として、もう一方では「新聞社」の略語として、ごく当たり前に使用されるようになったのは、その「新聞紙」や「新聞社」が私たちの国に、はじめて出現する時期と同一である、という結果になるであろう。この間の事情も、ふたたび『日本国語大辞典』の「語誌」を踏まえると、どうやら「幕末に中国から「新聞」「新聞紙」が news, newspaper の訳語として取り入れられた」のが最初のようであるし、この内の前者の「新聞」が、例えば「官板バタビヤ新聞」や「東京日日新聞」や「読売新聞」の、これらの「固有名詞に多く用いられたため、明治二〇年代には専ら newspaper の意として定着」することになり、そこから反対に、後者の「新聞紙」は「紙としての性質が意識される語となった」のが順序のようである。

なお、ここに「官板(かんぱん)バタビヤ新聞」とあるのは、これまた『日本国語大辞典』に従うと、通説では「日本の最初の」新聞と目されるものであり、それは「文久二年(一八六二)一月、江戸幕府の蕃書調所が、バタビア(現ジャカルタ)のオランダ政庁の機関誌「ヤバッシェ ‐ クーラント」〔Javasche Courant〕を翻訳出版したもの」であったから、これを「新聞」と呼ぶこと自体が、目下の君や僕には、首を傾(かし)げたくなる事態であったに違いない。が、これが「のち「官板海外新聞」と改題。日本の近代新聞の先駆となる」に至るのは、そもそも「新聞」という存在が私たちの国で、どのような役目を果たすものであったのかを、はっきり指し示している点で興味ぶかく、この「別称、文久新聞」から私たちの国の、まさしく「新聞」の歴史はスタートを切ったことになる。

言い換えれば、この時代の日本が急激な、いわゆる「近代化」(modernization)と「西洋化」(westernization)を遂げていく中で、その渦中において「新聞」は、何と徳川幕府が蕃書調所(ばんしょしらべしょ→洋書調所→開成所→開成学校→東京大学)を介し、みずから海外の情報を収集し、翻訳し、編纂し、これを日本各地に送り届ける(!)と言う......言ってみれば、それ自体が矛盾に満ちた、捨て身の行為にも等しかった訳であり、それは「鎖国」から「開国」への、大きな歴史の歩みが齎(もたら)した出来事でもあったことになるであろう。――と、このような物言いが出来るのは、君や僕が呑気(のんき=暖気)に、いたってヌクヌクと、毎日、毎朝、毎夕、ゆっくりと「新聞」のページを捲(めく)ることの叶う、実に贅沢な状態に置かれているからに他ならないのであるが。

要するに、今の君や僕の生活感覚からすれば、はなはだ普通の、ありふれたものになっている、この「新聞」という存在が、逆に150年余り前の日本においては、どれほど衝撃的で、画期的(エポック・メーキング)な「文明の利器」でありえたのかを、君や僕は弁(わきま)えておく必要がある。裏を返せば、このようにして「新聞」が掛け値なしの、正真正銘の「新しく聞いた話。新しい風聞。新しい話題」であった時代に、そもそも「新聞」は「新聞」(→新聞記者、新聞記事、新聞広告、新聞小説......)として、光り輝いていたのであって、そこから10年刻みで、例えば『日本国語大辞典』の挙げている、仮名書魯文(かながき・ろぶん)の『安愚楽鍋』(明治四年→1871年)や坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)の『当世書生気質』(明治十八年→1885年)の用例が、続くことになる。

もっとも、それと並んで注目されるのは、このような「新聞」の本来の、もともとの意味であった「新聞紙」が、ちょうど20世紀を迎える頃からであろうか、例えば国木田独歩(くにきだ・どっぽ)の『郊外』(明治三十三年→1900年)や、あるいは長塚節(ながつか・たかし)の『土』(明治四十三年→1910年)の用例のように、それが「包装その他の用途で〔、〕単に紙として見るときの語」に姿を変えていく過程(プロセス)も、同時に『日本国語大辞典』からは読み取られうる点である。すなわち、このようにして「新聞」が、詰まる所は「新聞紙」であり、見様によっては「単に紙として」存在し、その状態を如何様(いかよう)にも、それこそ包装紙を始めとする代用品(substitute=置換物)にも、転化の可能な性質を兼ね備えていることが、実は「新聞」の最大の特徴であった。

もちろん、おそらく君のような「現代っ子」(?)には、このようにして「新聞」を敷物(rug)の代用品にしたり、雑巾(rag)の代用品にしたり――あれやこれやと「単に紙として」使う、その使い方を心得ている可能性は、ほとんど期待できないであろう。が、この「現代っ子」という語が生まれ、流行語となった、その当の年(昭和三十六年→1961年)には立派な、すでに折り紙つきの「現代っ子」であった(......^^;)僕のような世代には、このようにして「新聞」を鼻紙(はながみ)の代わりに使ったり、あるいは塵紙(ちりがみ)の代わりに使ったり、はたまた、それを落紙(おとしがみ)として活用したりすることは、ごく日常茶飯であって、その意味において、あくまで「新聞」は「新聞」(ニュースペーパー)のままで、その用途を完遂する訳では、さらさら無かったのである。

このような「新聞」の活用法は、結果的に日本人に固有の、特有のものでは、なかったであろうが、それでも日本人が上手(ジョウズ)に、とても上手(うま)く、このような「新聞」の使い道を編み出し、それを生活の隅々にまで、宛がい続けてきたことは事実であって、それは解釈次第では、日本文化の粋(スイ→音読、訓読→いき)を極めたものでも、ありえたのかも知れないね。なにしろ、僕が子供の時分には「新聞」を折り畳み、兜(かぶと)や刀(かたな)や、あるいは手裏剣(しゅりけん)を作り、いわゆるチャンバラ(→チャンチャンバラバラ)をするのは、常識中の常識(common sense=共通感覚)であったし、例えば学校帰りにフーフーと息を吹き掛けながら、コロッケや石焼き芋を買い食いした折の、あの「新聞」の香ばしい匂いは、今でも忘れ難い匂いなのであるから。

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