ホームメッセージ提灯行列の話 ――「教養」の来た道(200) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

提灯行列の話 ――「教養」の来た道(200) 天野雅郎

先日(8月20日)、偶々(たまたま)我が家に届いた「毎日新聞」の文化(culture=教養)欄のページを捲(めく)っていて、そこに荒俣宏(あらまた・ひろし)の「毎日コレ検索」というコーナーを見つけ、いささか興味を持ったので、その話を今回、僕は君に聴いて貰(もら)いたい。――と言ったのは、この記事の題名(「日露戦争に見る熱狂と静寂」)も、さることながら、その冒頭に置かれていた小見出し(「記事が文学だった」)の、言い回し自体に僕が興味を持ったからであり、そこには明治三十七年(1904年)2月10日、いわゆる「日露戦争」が勃発し、その「速報」が「国民を歓喜させる号外」となって出回り、何と「東京では号外が出た〔、〕その夜、大々的な提灯(ちょうちん)行列で戦勝が祝われ、夜が昼に一変する大騒ぎとなった」事態が、事細かに述べられている。

とは言っても、その「提灯行列」自体が、ひょっとすると君には珍糞漢糞(チンプンカンプン)の、正体不明の代物(しろもの)であると困るので、まず恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、この「提灯行列」の語釈を紹介しておくと、そこには「祝意を表わす行事の際や祭礼の時に、火をともした提灯を手に手に持って、夜間、列を組んで行進すること。また、その行列」と書かれていて、用例に挙げられているのも、同じ明治三十七年(5月10日)の「東京朝日新聞」の記事(「市民大祝捷〔シュクショウ=祝勝〕会の提灯行列は、一昨夜を以て実行せられたり」)である。なお、この折の「提灯行列」には東京で、実に10万人以上が参加し、その熱狂の末、江戸城の馬場先門前では死者(20人!)までもが出る、大混乱を伴う「提灯行列」であったことで知られている。

それに比べると、先刻の新聞記事の中で荒俣宏が取り上げている、彼自身の出身校でもあった「慶應義塾の大行列」は、せいぜい「2000名の学生が職員の号令を受けて日比谷公園に整列、紅(べに)提灯を携えて上野の山に登ったあと、二重橋、海軍省などの前で万歳を連呼し、銀座へ出て勝どきを挙げたあと三田に帰着した」程度の、いまだ秩序のある「大騒ぎ」であった、と言えば言えよう。事実、これまた『日本国語大辞典』に従えば、前掲の「祝捷」の用例に挙げられている、今度は「萬〔よろづ〕朝報」(4月23日)の記事を踏まえると、そこには「提灯行列、其他一切〔、〕夜間の祝捷運動を禁止したる次第なりとぞ」と述べられていて、このような「祝捷運動」が警視庁によって、とうとう「禁止」されるまでに至り、それが再度、この時点において解禁された事態が窺われうる。そして、その半月後の出来事が、先程の「市民大祝捷会の提灯行列」であった訳である。

このようにして振り返ると、はたして君は「提灯行列」が、どのような起源を持ち、どのように由緒正しい、来歴を有するものであるのかが、少しは気になってくるのではあるまいか。なにしろ、おそらく君には提灯(チョウチン)と称される、この......何とも怪しい、古風な照明具(light=発光体)が、それ自体、身近には存在していないであろうし、これが漢字の宋音(ソウオン)や、あるいは唐音(トウオン)によって表現されている以上、それが日本の中世においては、どうやら最新流行の、おしゃれな照明具であり、そこには「懐中電灯」と同様の簡便な機能まで備わっていたことを、おぼろげながらに分かっても、それが巡り巡って、どのような経路を辿り、この「文明開化」の時代(すなわち、明治時代)の「提灯行列」へと結び付いていったのかは、謎めいているであろうから。

とは言っても、このような経緯も審(つまび=詳)らかに、ちゃんと報告をしてくれているのが、それ相応の辞書の、辞書たる所以(ゆえん)であって、例えば『日本国語大辞典』の「語誌」の項にも、まず「幕末の洋行使節によって紹介されたアメリカの〔、〕たいまつ行進が、たいまつを提灯に変えて行なわれたもの。明治六年(一八七三)に、医学校の外国人教授ミルレルの誕生日祝いに教員らが行なったものが最初という」――と、きっちり指摘されていて、僕に付け加えることがあるとすれば、この指摘が元来、石井研堂(いしい・けんどう)の『明治事物起源』(1944年、春陽堂)に由来するものであることや、あるいは「幕末の洋行使節」とは例の、万延元年(1860年)の「咸臨丸」による、勝海舟(かつ・かいしゅう)等の太平洋初横断を意味していること位(くらい)である。

が、このように指摘されてみると、この語が意外にも新しい、日本的な習慣......とも呼べないような、ヨーロッパ風(アメリカ風?)のハイカラ(high collar=高襟)な行事であったことが、窺われうる。また、このように種明しをされてみれば、このような「提灯行列」が今から140年余り前の、当時、東京大学医学部の前身であった「医学校」(→大学東高→東京医学校→東京大学医学部)に端を発していて、もともと新しいもの好きの、大学の教員(要するに、医者)に由来するものであったことも、なるほど、と頷かざるをえない点であろう。もっとも、それがドイツ(帝国!)から、いわゆる「お雇い外国人」として日本に来ていた、ミルレル(教頭)ことミュラー(Benjamin Carl Leopold Müller, 1824-1893 )の目には、どのように映ったのか知らん、と興味を誘われるけれども。

ところで、このような事情で始まった「提灯行列」が、これまた『日本国語大辞典』の「語誌」の続きを読むと、やがて「日清戦争(一八九四-九五)や日露戦争(一九〇四-〇五)の戦勝に際して大々的に行なわれ、明治三〇年代後半から一般化し、国家にとって祝うべき日に広く行なわれるようになった」のは、いかにも不明瞭な、不可解な気が、しないではない。そして――と、ここから先は別の辞書(『大衆文化事典』1991年、弘文堂)の受け売りであるけれども、これが「昭和時代になると、第二次世界大戦前夜から戦意高揚のため〔、〕しばしば提灯行列が催され、南京陥落(37年)や紀元二千六百年式典(40年)などでは全国的規模で挙行されたが、戦局の悪化につれて行われなくなり、敗戦国となった45年以後は〔、〕ほとんど忘れさられた過去のイベントとなった」由(よし)。

でも、そのような「提灯行列」が細々と、いろいろな機会に催され続け、今に至っているのも、これまた事実であって、その意味において、決して「提灯行列」は「忘れさられた過去のイベント」になってしまったのでは、さらさら無い。と言うよりも、このような「イベント」を好み、そこに群がる......人間の心性(mentality)は、何時でも何処でも、君や僕の心(mens)の中に宿っており、それを単純に、知性や知能や知力の問題に、換算することが叶う訳でもない。実際、このような「提灯行列」それ自体が、遡れば大学起源(!)の、輸入品と言おうか、舶来品と言おうか、はるか海外から私たちの国へと持ち込まれ、アレヨアレヨと言う間に私たちの間に普及し、定着し、ふと気が付くと、それが日本的な、まるで日本人らしい習慣にまで、その姿を変えてしまっていたのであるから。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University