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岡本綺堂論 ――「教養」の来た道(202) 天野雅郎

綺堂(きどう)こと岡本敬二(おかもと・けいじ)と言っても、その名を君が熟知のものである可能性は、まず期待できないであろうから、僕は明治から大正へと、そして昭和へと、おそらく当時(すなわち、戦前)の日本を代表する劇作家であり、また小説家でもあった、この「明治的人間」の経歴から、君に話を始めるのが無難であろう。とは言っても、仮に君が、この一連の文章(「教養」の来た道)の熱心な読者であるのなら、実は以前、このブログ(第178回:小栗風葉論)において、僕は一度、小栗風葉(おぐり・ふうよう)との繋がりで、この「明治的人間」の名を挙げ、そこに彼の、ごく一般的には代表作と見なされている、あの『半七捕物帳』にも言及しておいたから、ひょっとすると君は抜群の、信じ難い記憶力を発揮して、そのことを覚えていてくれたのかも知れないね。

ちなみに、この場で僕が「明治的人間」という表現を二度、繰り返しているのは、今、僕の膝の上に置かれている、筑摩書房版の「現代日本文學全集(56)」(『小杉天外・小栗風葉・岡本綺堂・眞山靑果集』1957年)の中に、たまたま「月報」が挿(さしはさ=差挟)まれていて、そこに岡本綺堂の「養嗣子」(=家督相続人)であった、岡本經一(おかもと・きょういち)の一文(「綺堂老人のこと」)が含まれており、それを僕がパラパラと読み返しているからに他ならない。なお、このようにして生前、前者(岡本綺堂)には実子がいなかったから、彼の「書生」(=内弟子)であった後者(森部經一)が養子となり、岡本姓を引き継ぐと共に、やがて彼の作品を収集し、保存し、普及させる目的で、昭和三十年(1955年)には「青蛙房(せいあぼう)」が創設され、現在に至っている。

ところで、この岡本經一の一文(「綺堂老人のこと」)は、それ自体、新たに昭和三十二年(1957年)になってから、書き起こされたものであるが、そこには例えば「一身のほかに味方なし」という「座右の銘」(いわゆる、モットー)から始まって、いかにも「明治的人間」であった岡本綺堂の逸話が、あれやこれやと書き連ねられていて、短文ではあっても、興味は尽きない。そして、このようにして「文士というものは士で、町人とは違うのである。恥を知り、義理をわきまえ、挙措〔きょそ〕進退〔、〕おのれ独りを慎〔つつし〕まねばならぬ」と言い切った、この「明治的人間」が「まだ敗戦の色が濃くない頃に平静な死をとげたことは、却って仕合せかも知れない。生きのびても、所詮、当代に気持よく生きられそうもない、いわゆる明治的人間であった」から......と結ばれている。

詳しく言うと、ここで「敗戦の色が濃くない頃」とあるのは、昭和十四年(1939年)の春(3月1日)のことであり、この日の「真昼の零時二十分〔、〕自宅に多くの門下生に見まもられて〔中略〕西日が自然に〔、〕うすれてゆくように平静な死」(年譜)を、岡本綺堂は遂げることになる。享年、数えの68歳。――遡れば、彼が生まれるのは折しも、私たちの国が「改暦」(太陰暦→太陽暦)という名の、歴史的大事件に遭遇する年であり、この年(明治五年→1872年)に生まれ合わせた「文士」には、順に田山花袋(たやま・かたい)德田秋聲(とくだ・しゅうせい)島崎藤村(しまざき・とうそん)樋口一葉(ひぐち・いちよう)といった顔ぶれが並び、この「文士」たちによって、やがて私たちの国の「近代文学」は、その本来の、純粋な姿を「近代小説」として、刻み出すことになる。

もっとも、そのような世代(generation)の中で、最初から岡本綺堂は、そのまま近代的な小説家(novelist)として、登場してきた訳ではない。なぜなら、前回の末尾でも僕が君に、荒俣宏(あらまた・ひろし)の新聞記事(「日露戦争に見る熱狂と静寂」)を通じて紹介しておいたように、彼のキャリア活動は「新聞記者」という形で、スタートを切ることになるからである。この間の事情を、さしあたり彼の『風俗明治東京物語』(1987年、河出文庫)の「職業についた頃」から、彼自身の口調で引いておくと......「どうして新聞社へ入ったって? われわれは〔、〕まず文学青年、貧乏ですから食うことを考えなければなりませんや。その頃、雑誌社といったって、博文館も〔、〕ありゃしませんでしたからね。ほかにないんですよ、新聞社以外には、私たちみたいな奴のすることは」。

この時点が、まず明治二十三年(1890年)の、彼が19歳の時の話である。そして、ここから最終的に、彼が「新聞記者」(newspaper reporter)という職業に終止符を打つことになるのは、23年後の大正二年(1913年)で、42歳の折のことになる。――と、このようにして振り返ると、どうやら彼が転々と、次々に新聞社を渡り歩き、そこで劇評や小説や戯曲を書いていた時期こそが、彼自身にとっても、日本の「近代文学」にとっても、画期的(epoch-making)な時期であったことが分かる。事実、この間に彼自身は、すでに「綺堂」という筆名(ペン・ネーム)を用いて、その名の通りの「綺堂物」を物すことになるし、同様に日本の「近代文学」も、これまた画期的な、対外的な「近代戦争」(=日清戦争+日露戦争)を潜り抜け、その渦中で、大きな変貌を遂げることになるからである。

その意味において、僕が先刻、引き合いに出しておいた「現代日本文學全集(56)」の「月報」には、ちょうど明治三十七年(1904年)の「日露戦争」の勃発に際して、まさしく「従軍記者として満州へ向う途次」の、彼の写真が一枚、困ったことに年数表記を間違えて(明治37年→明治27年)載っているけれども、このようにして軍服を着て、軍帽を被り、手には「旭日旗」を持ち、腕には「東京日日新聞」の腕章を付け......これから彼は中国の遼陽(りょうよう)で、あの「中秋」(荒俣宏「日露戦争に見る熱狂と静寂」)を迎えることになる訳である。また、そこで彼は「宿舎の主人から思いがけない御馳走(ごちそう)を贈られ」て、やっと当日が「十五夜」であることを思い出し、その「料理を楽しみ、眠られぬまま静寂に包まれた深夜の戦場を歩いて、満月を眺め尽くした」次第。

なお、この年の「中秋」は旧暦では、当然ながら、8月15日であるが、この日は新暦では、9月24日(土曜日)に当たっている。細かい数字を、幾つか付け加えておくと、この遼陽会戦は新暦の、8月28日に始まり、日本側とロシア側で合わせて、44,000人にも及ぶ死傷者を出した末、日本軍が遼陽を占領するのは新暦の、9月4日のことになる。と言うことは、その時点から数えて、ちょうど20日後の「十五夜」の「満月」を、あたかも岡本綺堂は「満州の広い舞台で戦争の活劇を見物する人」のように、眺めていたことになるであろう。――と、このように述べているのは、彼が後年(昭和十年→1935年)に上梓した、随筆集の『明治劇談・ランプの下にて』(1993年、岩波文庫)であるが、そこには印象的にも、この時の彼を襲った、もう一つの「死」が書き留められているので、ご一読を。

 

なんでも〔、〕その年の九月なかばと覚えている。遼陽戦が〔、〕わが勝利に終って、わたしが城北の大紙房という村落に舎営している時のことであった。満州の秋は早いので、もう薄寒い風の吹き出した夕暮に、内地から郵便物が到着したという通知があったので、わたしたちは急いで師団司令部へうけ取りにゆくと、岡本宛の分として五、六通の郵書と〔、〕ひと束〔たば〕の新聞紙とを渡された。〔中略〕うす暗い蝋燭(ろうそく)のあかりを頼りにして、わたしは先ず故郷の人々から送って来た郵書を読んで、それから新聞紙の束をほどいた。そうして、だんだんに読んで行くうちに、八月八日の紙上に市川左団次が昨七日死去という記事を掲げてあるのを発見した。〔改行〕「左団次も〔、〕とうとう死んだか。」〔改行・中略〕わたしは俄かに〔、〕さびしい心持になって、ぼんやりと表へ出ると、陰暦の十五夜に近い月の光りが〔、〕あざやかに地を照らして、葉のまばらな柳のかげが白くなびいていた。

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