ホームメッセージ明治は遠くなりにけり...... ――「教養」の来た道(204) 天野雅郎

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明治は遠くなりにけり...... ――「教養」の来た道(204) 天野雅郎

日本の近代演劇(modern theater→modern drama)の歴史について、僕は君に簡単な見取り図を提供することから、今回の話を始めたい。とは言っても、毎度毎度、繰り返しているように、そもそも僕自身が「近代」(モダン)という名の、この歴史区分の成立根拠(参照:大島康正『時代区分の成立根拠』1967年、理想社)に対して、かなり不信者(不審者?)の側に身を置いている訳であるから、言ってみれば、このような近代→中世→古代という三階建ての家の略図(スケッチ)を、これから僕は君に示しながらも、その見取り図(プラン)自体が、実は僕には疑わしい、場合によっては嘆かわしい、代物(しろもの)なのであって、そのような家の一階に、君や僕が「近代人」として暮らしている姿など、所詮(ショセン)は紛(まが)い物であると考えた方が賢明なのかも知れないね。

おまけに、この家には「近世」と呼ばれる......いったい近代なのか、中世なのか、よく分からない中二階があって、その名の通りに妖(あや=怪・奇)しい、外面からは見分けの付かず、見通すことの叶わない空間までもが設置されているから、ご用心。しかも、それが今回、僕が君に話を聴いて欲しい、肝心(カンジン=肝腎)要(かなめ)の「近代」の、ご先祖様とも称するべき人たち(すなわち、近世人)の生活空間なのであるから、何とも厄介(ヤッカイ→家居?→参照:柳田國男『国語の将来』)である。また、この家には自分たちで、みずからを「現代人」と信じ込んでいる、ある種の「地下生活者」たちも潜伏しており、その「自意識過剰」な態度はドストエフスキーの、あの『地下生活者の手記』(1864年)にも匹敵するが、この点については今回、触れないままにしておこう。

ちなみに、この「中二階」という表現は、おもしろいことに演劇用語でもあって、おそらく君には結構、その繋がり自体を喜んで貰(もら)えるであろうし、このような演劇用語を振り返ることで、君や僕は結果的に、そこから私たちの国で長い間、どのような地位を「演劇」が占めてきたのかも、うっすらと追体験をすることが出来るであろうから、その「中二階」という語の語釈を、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で引いておくと次のようになる。――「女形〔おんながた→おやま〕の部屋に当てられた楽屋の称。また、女形に扮する俳優の異称。立役〔たちやく=男形〕は三階に部屋をもっていたが、俳優の身で三階にいるのは〔、〕お上(かみ)に対して無礼にあたるとして、表面は〔、〕これを二階と呼んだところから、女形の部屋に当てられた二階をいったもの」。

さて、いささか長い、前置き(すなわち、前口上)となったけれども、要は私たちの国の近代演劇が、どのようにして近世演劇から近代演劇へと、その身を俏(やつ=窶)していったのかを、それ相応に跡付けることが叶えば、今回の話は当面、その役割を果しえたことになるであろう。が、あくまで当面と言ったのは、その先には続いて、いわゆる中世演劇である「能」や「狂言」や「幸若舞(こうわかまい)」や、さらには古代演劇である「神話」や「祭祀」や「歌謡」や......そこには明瞭に、はっきり演劇(ドラマ)とも舞踊(ダンス)とも音楽(ミュージック)とも、線引きをすることの出来ない、ある種の「総合芸術」としての「演劇=行為」(drama→dran)が、脈々と受け継がれていたからであって、そのような歴史の深い淵にも、君や僕は錘鉛(スイエン)を下ろさざるをえない。

その意味において、君や僕が現在、演劇という名で呼んでいるものは、ひろく日本の演劇の歴史の中から、演劇の演劇たる所以(ゆえん)の幾つかを、無惨にも抜き去ってしまった、とても歴史の浅い、抜け殻のようなものであったのかも知れないね。なにしろ、この点は僕が、例えば岡本綺堂(おかもと・きどう)の『風俗明治東京物語』(1987年、河出文庫)や『明治劇談・ランプの下にて』(1993年、岩波文庫)に、ひとたび目を通しただけでも、痛切に感じざるをえない点であり――その度に僕は、あの中村草田男(なかむら・くさたお)が大学生(!)の頃、今から85年も前(昭和六年→1931年)に詠んだ俳句(降る雪や、明治は遠くなりにけり)を想い起こし、このフレーズの醸し出す雰囲気に、どうにかして接近することは叶わないのか知らん......と先刻来、頭を捻っている始末。

ついでに、そこに目下の、執拗な残暑も上乗せをされ、僕の頭も到頭、正常に機能しなくなりそうな気配が濃厚であるから、この辺りで手っ取り早く、今回の宿題の方(かた)を付けておくと、そもそも明治時代の近代演劇は、これを大きく「新派」と、さらに「新劇」に分けて考えることが出来る。そして、すでに前回、このブログでも僕が君に報告を済ませておいたように、前者の「新派」の方が早く、明治二十年代に登場し、あの「歌舞伎座時代」(=「木挽(こびき)町時代」)と称される、一時代を築き上げるに至った訳である。したがって、こちらの「新派」の方は内容も、その形態も、あくまで歌舞伎の改良運動の延長線上で、姿を見せたものであり、その意味において、この両者の対立から派生的に、逆に「新派」(=勝者)と「旧派」(=敗者)が、導き出されたに過ぎない。

これに対して、もう一方の「新劇」については、あらためて次回以降、僕は君に話を、し直す予定であるけれども、こちらは表記の通りに「新しい劇」(new drama)であり、それを君には、さしあたり「歌舞伎〔=旧派劇〕・新派劇に対して、西洋近代劇の影響をうけて起こった演劇の総称」(『日本国語大辞典』)として受け止めて貰えれば、今は充分である。また、それが「明治末期以降、近代的な演劇を日本に確立しようとした運動」(同上)であった以上、そこには当然、歌舞伎の派閥争い(新派⇔旧派)から惹(ひ)き起こされた、国内的(domestic)な事情とは性格の違う、むしろ国外的な――それどころか、国際的(international)な脈絡が、この運動の背後には控えているのであって、それは端的に、この「新劇運動」が20世紀になってから、姿を見せる点にも明瞭に窺われうる。

要するに、このようにして20世紀になってから、とりわけ私たちの国が体験した、最初の本格的な近代戦争でもあれば、国際戦争でもあった、あの「日露戦争」以降、私たちの国には様々な、演劇であれ舞踊であれ音楽であれ、はたまた、建築であれ絵画であれ彫刻であれ、ひろく私たちの国の「芸術」と「技術」の全体を巻き込んだ、とてつもない「文化改良運動」の波が押し寄せていた訳である。もちろん、そこに何よりも、このような「文化」の代表であり、典型である「文学」と、その近代的な嫡出子である「小説」を、付け加えることを忘れてはならないが、次回以降、そのような繋がりの中で日本の文学者や、なかんずく小説家が産み出した、いわゆる「ミステリー」の傑作として、僕は君に岡本綺堂の『半七捕物帳』を紹介し、その醍醐味を君と共に味わい直したい、と願っている。

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