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ランプの下(もと)にて ――「教養」の来た道(205) 天野雅郎

岡本綺堂(おかもと・きどう)の『ランプの下にて』は、もともと彼が、数えの64歳の折に上梓(ジョウシ)したものであり、昭和十年(1935年)の刊行であるから、ほぼ今から80年前の本になる。なお、この場で僕の使っている、この「上梓」という語は、そのまま訓読すれば「梓(あずさ)に上(のぼ)す」となって、これ以外にも「梓に刻(きざ)む」とか「梓に鏤(ちりば)む」とか、同じような言い回しが存在することからも窺えるように、かつては梓の木を版木に用い、本を出版していたことが起源である。とは言っても、それは日本の昔話であるよりも前に、むしろ中国の昔話であって、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の梓(訓読→あずさ、音読→シ)の「語誌」にも「中国では梓の木を版木に用いたので、出版のことを上梓(じようし)という」と書かれている。

ちなみに、この梓の「語誌」の筆頭には、さらに「古代、手紙を運ぶ使者は梓の杖を持ち、「玉梓(たまずさ)の使い」とよばれた。のち玉梓(玉章)は手紙そのものをさしていう」――という説明文が置かれていて、どうやら梓の木(すなわち、植物)と人間の、文字や文章を書き記す行為との間には、かなり奥の深い、謎めいた因縁(インネン→因=直接的連鎖+縁=間接的連鎖)が秘められているらしく、興味は尽きない。事実、先刻の「玉梓」という語は『万葉集』においてすら、すでに正体不明の、いわゆる枕詞(まくらことば)ともなっていて、それが「玉梓の使い(→使ひ)」や「玉梓の妹(いも)」という言い回しで、もっぱら用いられること以外には、その用法や実態は、ほとんど分からず仕舞いになっており、今後も、それが分かるのか......どうかは、あやしい限りである。

ところで、このようにして『万葉集』には、この「玉梓」の他にも、例えば「玉葛(たまかづら)」や「玉藻(たまも)」のように、それぞれの植物に美称の「玉」を冠して、その美(うつく)しさや、あるいは厳(いつく)しさを誉(ほ)め、称(たた)えるためのフレーズが、いろいろ見出されるけれども、当然、その際の「玉」(たま=珠)の裏側には、いつも「霊」(たま=魂)が隠され、潜(ひそ)められていた次第。その意味において、どのような文字や文章を、人間が書き記す場合にも、そこには常に「玉梓」(=霊梓)の、ある種の人間関係が想定されざるをえず、その人間関係は例えば、以下の『万葉集』(巻第七)の挽歌のごとく、今、この時を生きている人間と、生きていない人間との間にも、ある種の「玉梓の使い」の役割を、抱え込むべきものでもあったに違いない。

 

玉梓の 妹は珠かも あしひきの 清(きよ)き山辺(やまへ)に 蒔(ま)けば散りぬる(1415)

玉梓の 妹は花かも あしひきの 此(こ)の山影(やまかげ)に まけば失(う)せぬる(1416)

 

さて、このような前置きで今回は、岡本綺堂の『ランプの下にて』から、いささか僕は君に、その「ランプ」の話を聴いて貰(もら)いたい、と願っているのであるが、そもそもランプの語源はギリシア語(lampas=灯火)と、それを『新約聖書』経由で引き継いだ、英語のランプ(lamp)であったから、この語は元来、字義どおりには「灯火全般を意味する語」であって、ある特定の、決まった種類の照明具を指し示す語ではなかったし、このような使い方も明治時代の初期には、ごく普通であった。また、意外にも「ランプの伝来は明らかでないが、安政六年(一八五九)越後長岡〔現:新潟県長岡市〕の鈴木鉄義〔鉄蔵?〕が横浜でスネイル〔スネル?〕から買って点火したのが最初と言われている」らしく、どうやら江戸時代の末期には、もう日本にランプは輸入済みであったようである。

と、このように書き記しているのは、目下、僕の膝の上に置かれている『事物起源辞典(衣食住編)』(1970年、東京堂出版)であるけれども、この辞典の説明を踏まえれば、この後に大阪で、たちまち「明治五年〔1872年〕ごろには、国産のランプが販売されるようになり、〔明治〕三〇年代が全盛期で、大正初期にかけて全国的に使用された。平芯〔ひらしん〕、巻芯〔まきしん〕、両芯〔=平芯+巻芯〕など各種あった。油煙がでるので、ホヤ〔=ガラス製の筒→火舎・火屋〕を毎日掃除しなければならなかったり、また倒すと火災の危険があったが、従前の灯火より〔、〕はるかに明るく、持ち運びが可能であったので、非常に普及した」と述べられていて、この「石油洋灯」(すなわち、石油ランプ)が明治時代と、ほぼ同時進行で、私たちの生活の中に浸透していく様子が窺われうる。

言い換えれば、このようにして「ランプ」は私たちの国の、近代化や西洋化や――要するに、あの「文明開化」(civilization)にとっては、とても分かりやすい、誰の目にも明らかな、物質的な象徴(symbol=割符)でありえた訳であり、それは折しも、ちょうど時を同じくして、まるで「文明開化」の双子(ふたご)のようにして姿を見せた、もう一方の「瓦斯(ガス)灯」(gas lamp→瓦斯ランプ)と共に、はじめて当時の日本人の目の前に、自分たちの生きている時代(すなわち、近代→現代)を意識させ、自覚させる、絶大な効能を有するものであったことになるであろう。その意味において、このような照明(illumination)は精神的な、どのような啓蒙(enlightenment=照明)にも増して、当時の日本人に「文明開化」の何たるかを教えてくれる、最適の教材であったに違いない。

もっとも、このような照明具(light=発光体)を通じて、そこから日本人が容易に、仮に「文明開化」の物質的な理解を果たすことが叶ったとしても、それが等しく日本人の、精神的な「文明開化」の理解に繋がっていたのか、どうかは疑わしい点であり、おそらく逆に、このような物質的な理解が精神的な理解を遅れさせ、むしろ後回しにしてしまう、さながら光と闇の双方の機能を有するものであったことも、君や僕は忘れてはならないはずである。また、そのような理解の可能性(と言うよりも、現実性)は、もっぱら当時、文字どおりの「都市」(city)で暮らしている「都市住民」(citizen)に対してのみ、認められた権利であり、特権であって、そのような「都市生活」(city life)の快適さや便利さを、今度は日本全国に向かって発信し、喧伝し、鼓舞するためのものでもあった。

裏を返せば、これ以降、そのような快適さや便利さが日本全国、津々浦々(つつうらうら)の日本人にまで行き渡るには、さらに長い、いわゆる「世紀」(century=百年)単位の時間が必要とされていた訳である。しかも、このようにして当時の、近代的な科学と西洋的な技術の粋(スイ→音読、訓読→いき)を集めたものであったはずの、石油ランプや瓦斯ランプや、総じて「ランプ」が、結果的に日本人の生活空間の隅々(すみずみ)にまで行き渡るスピードは......皮肉にも、それを遙かに上回るスピードで、次々と新しい照明具や発光体を産み出していく、近代化や西洋化の波には到底、太刀打ちが出来ず、やがてランプは岡本綺堂が、以下の『ランプの下にて』の「小序」で述べているような、懐かしい「昔話」を想い起こし、それを語り出すための小道具へと、姿を変えたのであった。

 

ことしは五代目菊五郎の三十三回忌追善興行を催すという噂を聞かされて、明治劇壇も〔、〕かなりに遠い過去となったことを今更のように感じた。〔改行〕その過去の梨園(りえん)に落ち散る花びらを拾いあつめて、この一冊をなした。勿論、明治劇壇の正しい記録でなく、老いたる劇作家の昔話に過ぎないのである。〔中略・改行〕ここに語られる世界は、電車も自動車も〔、〕なかった時代である。電灯や瓦斯灯(ガスとう)の使用も、官省、銀行、会社、工場、商店、その他の人寄せ場に限られて、一般の住宅では〔、〕まだランプをとぼしていた時代である。したがって、この昔話も煌々(こうこう)たる電灯の下で語るよりは、薄暗いランプの下で語るべき種類のものであるかも知れない。〔改行〕その意味で、題名にランプを択(えら)んだのであるが、もし読者が〔、〕その旧(ふる)きを嫌わずして、明るい電灯の下で〔、〕この一冊を繙(ひもと)かれるならば、著者に取っては幸いである。

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