ホームメッセージ不思議な映画館 ――「教養」の来た道(210) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

不思議な映画館 ――「教養」の来た道(210) 天野雅郎

目下、授業で日本の怪談映画を観ている。怪談映画と言うと、その季節は夏と決まっていて、秋や冬に怪談映画を観るのも、何やら変な気がしないではない。と書き出すと、このような季節感(ひいては、季節観)が昨今の日本人には、ほぼ通用しないものになっており、例えば現在、授業で鑑賞している『異人たちとの夏』(1988年、松竹)という映画が、なぜ表題に、ことさら「夏」を掲げているのであろう、という問い掛け自体が、おそらく和歌山大学の学生諸君の脳裏に浮かぶ確率は、きわめて低いのではあるまいか。ちなみに、この映画は原作が山田太一(やまだ・たいち)で、脚本が市川森一(いちかわ・しんいち)で、おまけに監督が大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)で......という錚々(ソウソウ)たる顔ぶれであったから、ぜひ君も一度、観賞して貰(もら)えると有り難い。

ところで、僕が子供の頃には夏が来ると、いつも決まって映画館では、怪談映画を上映していた覚えがあるし、それどころか、その時分(すなわち、1960年代)の楽しみは、待ちに待った夏休みに町内の、お寺の石段あたりに特製の、俄(にわか)スクリーンを備え付け、そこで幽霊映画や妖怪映画を観ることであった。――と、このような昔話を語っても、いっこうに君はピンと来ないであろうが、それでも当時は、このような屋外の、その名の通りに露天の映画鑑賞が、ごく普通であったし、そのことを不思議に思うことも、まったく無かった次第。おそらく、そこには映画の明かりに誘われて、パタパタと蛾が飛んでいたり、体の至る所をブ~ンと、蚊が刺しまくったりしていたのであろうけれども、そのような記憶すら吹き飛んでしまうほどの、それはそれは、楽しい映画鑑賞であった。

なお、このような映画鑑賞の仕方を、それ以降、僕は意識することもなく、勝手に日本に独自(オリジナル)のものと思い込んでいたのであるが、それは大きな間違いであり、言ってみれば、このような「露天映画館」は世界の、さまざまな地域に存在する、とても普遍的(ユニヴァーサル)な映画館であることを、まさしく映画を通じて、僕は教えられることになる。その点、君も興味が湧いたら、まず有名な、イタリア映画の『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年、監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)を筆頭にして、例えばタイ映画の『わすれな歌』(2001年、監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン)や、中国映画の『天上の恋人』(2002年、監督:ジャン・チンミン)を観て貰えれば、このような映画館が映画本来の、魅力を伝え、産み出す場であったことを、君も追体験できるはず。

言い換えれば、このような「露天映画館」に比べると、今の君や僕が映画を観て、ついでに買い物や食事をするために出掛けている、あの「シネコン」こと「シネマ・コンプレックス」(cinema complex=複合型映画館)は、いかにも味気ない映画館であることが分かってくる。事実、僕も昨日、実に久し振りに女房と娘を連れて(連れられて?)今年の日本映画の大ヒット作を、おくればせながらも鑑賞したのであるが......まあ、映画自体については後から、いろいろ感想を述べることにして、なぜ映画館で最初に、次から次へと禁止事項(撮影、電話、私語、等々)が告げられて、ついでに座席の指定や総入れ替え制まで、どう見ても映画好きには余計な、お世話であるものが多過ぎるのではなかろうか、と半ば呆然とした、不思議な心持ちで映画を観て、僕は映画館を後にしたのであった。

と、そのような翌日に、僕は君に「不思議な映画館」と題して、このブログを書き始めているのであるから、その真意を君も、きっと理解してくれているに違いない。なお、ちょうど今日は新暦(=陽暦)の10月31日であるけれども、これを旧暦(=陰暦)に戻せば10月1日となって、まさしく秋と冬の、入れ替わりの日であったことになる。したがって、この国では古来、今日は冬の更衣(音読→コウイ、訓読→ころもがえ=衣更)の日であったし、なおかつ、今日の夜は昔々、ケルト人たちの冬迎えの行事であった、いわゆる「ハロウィーン」(Halloween→All Hallow Eve=万聖節前夜祭)にも当たっていて、それは生者と死者との束の間の、交歓の時でもあった訳であるから、なお都合が好い。と言い出すと、僕が昨日、観たばかりの映画の題名も、おそらく君には、お見通しであろう。

もちろん、このような生者と死者との交歓は、昨今の日本人が思うほど、特殊なものではないし、変わったものでも、不思議なものでもない。事実、そのようにして君も僕も、幼い頃から一年に二度、あの「盆」(ぼん→盂蘭盆)と「正月」と呼ばれる行事を、くりかえし経験してきたのであって、そのような経験を日本人は、まさしく「盆と正月が一緒に来たようだ」と言って、その喜びや嬉しさを、表現してきたのでもあった。とは言っても、君や僕が本当に、例えば誰かと夢(ゆめ→いめ→寝目)の中で、ましてや現(うつつ→空・虚)において、お互いに入れ替わったり、出会ったりするすることなど、ありえない話であるし、そのような体験が仮に、何かの弾(はず=勢)みで起きたとしたら、それは酷く、嫌な体験でもあろうし、不快と苦痛の他の、何ものでもなかったに違いない。

だからこそ、そのような体験を束の間、疑似体験をするべく、君や僕は自分の、日常の目を閉じる(myein)ことを求められているし、その限りにおいて、その名の通りの神秘主義(mysticism=秘儀伝授)が、君や僕には必要である。――とは言っても、そのような神秘主義を映画の中に持ち込み、これを一種、特異な生命の賦活(アニメーション)として表現することに対して、残念ながら、僕自身は興味が湧かないし、そのような主題(テーマ)であれば、かつて『転校生』(1982年)や『時をかける少女』(1983年)や『さびしんぼう』(1985年)のように、これまた大林宣彦の撮った実写映画(「尾道三部作」)の方が、ずっと怪談映画としても、僕は好みであるけれども、さて君は、いかがであろう。なにしろ、僕にとって怪談映画とは、その名の通りの怪談で、あらねばならないから。

と言ったのは、怪談とは元来、それが不思議な......君や僕の生きている、この世界の夥(おびただ)しい、多彩な、怪(あやしい)談(かたり)ではあっても、それ自体は第一義的に「こわい」とか「おそろしい」とか――要するに、君や僕に恐怖の感情を与えるものであるよりも、いつも決まって、くりかえし君や僕の口から「ああ」とか「あな」とか「あれ」とか、とりわけ「あや」(→あやしい)という声を、漏らさせるに至る物語であらねばならず、その意図に即して、それは怪談と呼ばれるべきものであろう。と言い出すと、昨日、僕が観た映画は確かに、それ自体は怪談映画であり、ついでに由緒正しく、ちゃんと新暦の夏に、遡れば旧暦の秋に、その公開を始めている。その点、まったく『異人たちとの夏』と同じであった。あの、ラスト・シーン(......^^;)を抜きにすればね。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University