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年越しの話 ――「教養」の来た道(219) 天野雅郎

謹賀新年。今年の年越しも例年と同様、僕は郷里(島根県松江市)で過ごしたのであるが、よく考えてみると、この「年越し」という語も意味不明......と評するよりも、意味深長の語ではあるまいか。と言ったのは、そもそも年を越す、と言う場合の「越す」とは単に、年越し蕎麦(そば)をツルツルと咽喉(のど)に流し込んでいれば、それで「越す」ことの叶うような、あまっちょろいものではなく、そこには何か、もっと奥の深い、困難な作業が求められ、秘められているかのような、気配が漂っているからである。と書き出して、僕は今年も恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引き始めている所であるが、その前に、この「年越し」の語の次に置かれている「年越し蕎麦」の説明から、僕は君に話を聴いて貰(もら)いたい気分になったので、その分、何分にも、よろしく。

とは言っても、いくら君が「現代ッ子」で、すでに1980年代の中盤以降、この国に半世紀余りも前から、生息している「新人類」の子孫ではあっても、よもや「年越し蕎麦」を知らなかったり、これを口に運んだりしたことが、ないはずはないよね。――と信じ込むのは、やはり大きな間違いであり、その証拠に、例えば『日本国語大辞典』の「年越し蕎麦」の語釈(「大晦日の夜または節分の夜に吉例として食べる〔、〕そば」)を、そのまま君の頭はスンナリと、受け容れることが出来たであろうか。また、そこに典拠として挙げられている、若月紫蘭(わかつき・しらん)の『東京年中行事』(明治四十四年→1911年)の用例(「かうして年越蕎麦(トシコシソバ)は今も猶〔なほ〕盛〔さかん〕に祝はれつつ有るので有る」)も、はたして君は過不足なく、理解が行き届いたであろうか。

ところで、このようにして「年越し蕎麦」が全盛期を迎えていたのは、おそらく明治から大正へと、さらには昭和へと、私たちの国が近代化(modernization)を推し進めていく経緯と、裏腹の事態であって、その意味において振り返ると、どこか「年越し蕎麦」にも懐かしい、江戸の面影がチラチラとし始めるから不思議である。実際、僕の手許の「生活史事典」(樋口清之監修『起源のナゾ』1980年、光文書院)で調べると、そこには「年越し蕎麦」が「江戸中期の町屋から起こった風俗で〔、〕細く長くのびる〔、〕そばにあやかり、寿命や家庭をのばし身上(しんしょう)を末永く保とうという意味という」と記されているし、どうやら「江戸時代、京阪では麦飯にイワシをそえて除夜を祝ったが、江戸では年越しそばを食べた」と付け加えられているから、これは完全に江戸起源である。

なお、これに対して「地方では雑煮や白い飯と魚で祝った」のが本来のようであり、ひょっとすると「年越し蕎麦」が全国的に普及し、定着するに至ったのも、実は先刻来、僕が君に「近代化」という名で伝えておいた......要は私たちの国で、明(あ)け透(す)けなまでに営まれ続けた、画一的な「西洋化」(westernization)の副産物であったのかも知れないね。なにしろ、もともと「一二月の晦日(みそか)」は「年越し祭りで、年ごもりといって神社に参籠(さんろう)する風習があり、家にいても眠らないで静かに慎(つつ)しみをして夜を明かした」(同上)のが、この国の、古い習慣であったから。この点については、もう少し詳しく、以下の『日本風俗史事典』(1979年、弘文堂)の「除夜」の叙述を書き写すことで、君と「年越し祭り」の意義を共有できるならば、有り難い。

 

大晦日(おおみそか)の夜。一年の替わり目で、大年(おおとし)・年の夜〔よ〕・年越(としこし)などとも呼ぶ。歳神(としがみ)(正月様・歳徳神ともいう)を迎えるために、心身を清め、終夜〔、〕眠らずに過ごすのが古い形であった。除夜に早く寝ると白髪になるとか、しわがよるという言い伝えがあるのは、この物忌〔ものいみ〕の名残りである。この夜、大祓(おおはらえ)の神事が行なわれ、また寺院では除夜の鐘を鳴らす。この鐘を合図に、青年たちが裸で海にとびこむ〔、〕しきたりがあるのも、汚れをおとすミソギである。江戸時代から、寺々で心の汚れである煩悩を取り除くために百八つの鐘をつき、それを除夜の鐘と称するようになった。この夜の食事は、オセチとかトシトリと呼んで特別の〔、〕ごちそうを食べる。年越そばも〔、〕その一つである。

 

と、ここまで話が来ると、どのような役割を「年越し蕎麦」が担(にな=荷)うものであったのかも、きっと君は了解済みであるに違いない。言い換えれば、君や僕が現在、御節(おせち)料理という名で呼んでいる、あの「煮物、栗きんとん、数の子、ごまめ、だて巻など」(『日本国語大辞典』)と一緒に、文字どおりに「節日の料理」の代表格として、君や僕の食卓に「年越し蕎麦」は顔を揃えていたのであった。そして、その意味において、この「節(せち)の日に作る〔、〕ごちそうや、お供えの餅。また、それをふるまうこと」を「節供」(せちく)と称し、これが「御節供料理」(あせちく・りょうり)や「御節供振舞」(おせちく・ぶるまい)と名付けられ、さらに――そこから後世、江戸時代になって、短縮形の「御節」という語が誕生したであろうことは、想像に難くない。

と言ったのは、このような「御節」の典拠に『日本国語大辞典』が、もっぱら江戸時代の用例を挙げているからに、ほかならないが、忘れてはならないのは、その際の「御節」が「御節供」の省略形である、という点であろう。なにしろ、この点を忘れてしまうと、それこそ「御節供」は「御節句」(おせちく→おせっく)となってしまい、ただ単に、三月三日(上巳→桃の節供)や五月五日(端午→菖蒲の節句)や、あるいは七月七日(七夕)や九月九日(重陽→菊の節供)を表示する、暦の上の一日と化してしまう危険性が、あるからである。もちろん、それでも構わない、と言えば言えるけれども、そうなってしまうと、このような「御節句」の筆頭に位置するのが一月一日(=元日)であることも、君や僕の頭(心?)の中から、すっかり抜け落ちてしまうことには、ならないであろうか。

すなわち、このようにして桃の花が咲いたら、そのことを祝い、これに因(ちな)んだ桃酒(ももざけ)を飲んだり、菱餅(ひしもち)を食べたり、雛(ひいな→ひな)人形を飾ったりして、君や僕は「御節句」の祭を営むのであるが、その際は必ず、この祭の主役(!)である「御雛様」に対して、まず「御節供」である桃酒や菱餅や、まさしく桃の花が活けられ、供えられる訳である。このこと自体は、別段、端午でも七夕でも重陽でも、まったく変わる点は、ないけれども、それを一番、分かりやすい形で、はっきりと君や僕に伝えているのが、言うまでもなく、元日であり、元旦(=元朝)であり、いわゆる「御正月」なのである。したがって、そのような「御正月」を迎えるために、準備される「御馳走」(→馳せ走る)が「御節料理」であることは、もはや力説するまでもないはず。

さて、このようにして振り返ると、君や僕が「御正月」に際し、いつも食べている「御雑煮」(おぞうに)や、飲んでいる「御屠蘇」(おとそ)や「御神酒」(おみき)にも、とても深い意味が隠されていることに、気付かざるをえない。と言うよりも、そのような深い意味を浅く......と評しては、語弊があるけれども、少なくとも子供の目にも分かる、見えやすい形で、はっきりと君や僕の目の前に提示してくれているのが、このような「御節料理」であったのであって、それは元来、文字どおりに「節日」(セチニチ→呉音、漢音→セツジツ)に、その到来に備え、その到来と共に、君や僕の口に運ばれ、飲まれ、食されるものであった次第。そして、そのような晩餐(dinner=正餐)を経ることで、どうにかこうにか、やっと君や僕が迎えることの叶うのが、そもそも「御正月」であった。

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