ホームメッセージ卒業論文と読書体験 ――「教養」の来た道(223) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

卒業論文と読書体験 ――「教養」の来た道(223) 天野雅郎

今回は文字どおりの、番外編である。と言ったのは、この数回、僕は「恐怖の哲学」という題名で、あれこれ日本語(すなわち、日本人)の恐怖の語彙(ヴォキャブラリー)について、込み入った話を君に聴いて貰(もら)っているのであるが、実の所、それよりも何倍も、何十倍も込み入っているのが、この時期の大学であって、要は一年で一番、忙しくて、慌しい折を、この時期の大学は迎えている訳である。したがって、それは僕にとっても、とうてい「徒然(つれづれ)なるままに、日暮(ひく)らし硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆく由(よし)なし事を、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ、物狂ほしけれ」と、このような『徒然草』(序段)の一文を、吉田兼好(よしだ・けんこう)のように風流に、物々しく物している暇(いとま=遑)は、ないのが実情である。

と言う訳で、この一連の文章の執筆も、いつもよりも時間が掛かり、遅れてしまった上に、もっと恐(おそ)ろしいのは僕自身が、より怖(こわ)い、恐怖の対象に襲(おそ)われて、いかにも強々(こわごわ)しい体験を、この半月ばかりの間、続けていることである。多分、その間の事情は君にも、きっと察しが付くに違いないけれども、それは数え上げたら、まず一年で最後の授業や、その補講や、ひいては試験やレポートの採点と繋がるのであるが、それに輪を掛けて、さらに大変なのは卒業論文や、あるいは修士論文の査読や審査である。もっとも、僕の場合は幸運にも、博士論文の査読や審査の役目は免れているし、そもそも自分自身が「博士」という肩書などには縁のない、ただの天野某(なにがし)として暮らしたい側であるから、まだしも忙しさは、ましな方かも知れないね。

と、どこかで君も、おそらく聞いたことがあるであろう(......^^;)粋(いき=意気)な台詞(せりふ)の一つをも吐(は)くことで、僕は今回の話をスタートさせている。――が、それとは裏腹に、この時期になると決まって、いつも気になって、気になって仕方がないのは、昨今の大学生の作文力の低下である。すなわち、どうやら昨今の大学生は放っておくと、みずからの力で、単独で卒業論文を書き上げることが叶わず、結果的に一人の大学生に卒業論文を書かせるには、そこで教員が「付かず離れず」の関係を保っていては不可能であり、いきおい、教員の中には越えてはならない「一線」を越え、論文指導という名の添削や改竄(カイザン)や、その果てには代作者(ゴースト・ライター)まがいの行為にまで手を染めかねない、何とも罪深い、おぞましい時代が訪れているのである。

そのような時代の所為(セイ→ショイ?)でもあろうか、驚くべきことに「卒業論文が独りで書けるはずは、ありません」(!)と豪語する教員の声まで、僕の耳には届いてくる始末。まあ、そのような教員は自分自身が、かつて卒業論文を書いた際、さぞかし手取り足取り、みずからの指導教員に念入りな、懇切丁寧な指導を受けたのであろうが、困ったことに僕のようなロートル(中国語→老頭児)世代には、大学生の頃に卒業論文を書くための、特別の授業があった訳でもなく、特別の訓練を受けた訳でもない。でも、それにもかかわらず、と言おうか、そうであるからこそ、と言おうか、はるかに現在の大学生を上回る、まともな卒業論文を書き上げて、ほとんどの大学生が大学を卒業していくことが出来たのであるから、これは考えてみると、不思議と評する以外の、何ものでもない。

とは言っても、おそらく現在の大学生と、僕のようなロートル世代が、いまだ大学生であった頃との間には、ある種、大学生としての日常生活における何かが、決定的に違っていたのではないか知らん......と僕は感じていて、それが察するに、どうやら読書量と言うべきか、読書質と言うべきか、ともかく「読書」(reading=相談)と呼ばれる行為と、その体験に関する違いであったのではなかろうか、と最近、僕は感じる機会が多いのであるが、さて君は、いかがであろう。実際、このことは昨今、いろいろな授業を通じて、僕に臆面もなく、大学に入ってから一冊も本を読んだことがない、と応じる大学生や、読んだことがあっても、それは唯一、授業で教科書として買わされ、読まされた本のみである、と答える大学生の数が、冗談ではなく、半端ではない、という点からも明らかである。

言い換えれば、僕が大学生であった時分には、卒業論文とは要するに、このような「読書」と呼ばれる行為や、その体験の延長線上に、おのずから姿を見せて、形を刻み出すものであって、そのような「読書」を通じて得られる知識や情報を土台にして、それらを真似したり――どうにかこうにか、自分なりの工夫をして、そこに加工を施したりすれば、例えば参考文献の引用方法や、脚注の付け方から始まって、指導教員の手を煩わせる必要はなかったし、裏を返せば、そのような指導に手を染めたがる教員の、しつこいまでの介入を避けることも出来た訳である。なにしろ、昔も今も変わらず、他人の文章に手を入れたり、手を加えたりすることを好む教員は、ほとんどの場合、自分自身が文章力に恵まれず、秀でてはいない、要は下手な、無能な表現者であるのが通例であったからである。

この点は、例えば句読点の打ち方、一つから始まって、他人の文章に平気で、土足で踏み込み、とにかく自分の趣味で句点や読点を添えたり、削ったり、言ってみれば、まったく繊細さ(デリカシー)を欠いた態度で大学生の文章と格闘する、厚顔無恥な教員の特徴である。このような教員は、まさか自分が日本語を書く時にも、誰かの添削指導を仰いでいる訳では......なかろうが、おそらく日本語ではなく、これが外国語の作文の場合には、そこに決まって、他人の手を借り、金まで払い、いわゆるネイティヴの手助けによって文章を書き、それに堂々と、みずからの著名をして公表する、この国の多くの研究者の一人であったに違いないのである。でも、なぜ、そのような幼稚な外国語力しか持ち合わせていないのに、外国語で論文を書いたりする必要があるのであろう。――人生、不可解。

このようにして振り返ると、ずいぶん卒業論文も長い間、日本人にとっては過酷な、無謀な作業を強いてきたものだなあ、と僕は少々、可笑(おか)しな感慨に浸らざるをえない。なにしろ、このような卒業論文を大概の大学生は、昔も今も変わらず、わずかな例外的存在を除いて、みずから望み......書きたい、書きたいと願って、その筆を執る訳ではなく、言ってみれば、自分の将来に役立つ点など、ほとんど見出せないままに、実に不健康な数十日を過ごし、それを代償として、晴れて大学の卒業式に臨むことが叶う訳であるから。したがって、そのような大学生の悪戦苦闘から産み出された、いたって不出来な、不出来も不出来な、卒業論文に対しても、少なくとも僕個人は、これに横から口を出し、手を出し、それで自己満足をするような教員には、決してなるまい、と誓っている次第。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University