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『紀ノ川』を読み直す ――「教養」の来た道(225) 天野雅郎

有吉佐和子(ありよし・さわこ)の『紀ノ川』が、まず雑誌の『婦人画報』に連載された後、それが単行本として刊行されるに至ったのは、今を遡ること、もう60年近くも前のことになるのであるが、この小説を最初に僕が読んだのは、いつの時分のことであったのか、よく覚えていない。けれども、まだ僕が大学生であった頃には、それどころか......さかのぼれば高校生や中学生や小学生の時分にも、いわゆる日本を代表する「ベスト・セラー作家」の一人であったのが、有吉佐和子であり、実際、彼女の作品は当時、子供であった僕にも、例えば『香華(こうげ)』や『三婆(さんばば)』や、あるいは『助左衛門四代記』や『華岡青洲の妻』を通じて、それぞれテレビ・ドラマではあるけれども、よく原作者として名前を見掛ける、その意味において、とても有名な作家であった訳である。

なお、これらのテレビ・ドラマに先立って、と言おうか、それらに並行して、と言おうか、彼女の作品は昭和三十三年(1958年)の『美しい庵主(あんじゅ)さん』を皮切りにして、先刻の『香華』にしても『華岡青洲の妻』にしても、あるいは『不信のとき』にしても『恍惚の人』にしても、これらは一様に原作が出版された翌年か、翌々年には映画化をされているのであったから、その人気ぶりも、まったく君が当時(すなわち、1950年代から1970年代まで)の状況を知らなかったとしても、きっと充分に推測は可能であったに違いない。そして、そのような形で昭和三十四年(1959年)には小説が書かれ、それが昭和三十九年(1964年)にはテレビ・ドラマとなって、そこから続けて、今度は昭和四十一年(1966年)に映画化をされたのが、僕が今回、取り上げている『紀ノ川』であった。

ところで、このようにして僕は当然のように、あたりまえに君に有吉佐和子の話を、し始めているのであるが、よもや君は彼女の出生地が和歌山県の、それも和歌山市の、真砂(まさご)丁であることを、知らないはずはないよね。――とは言っても、その場所は現在、地名を吹上(ふきあげ)一丁目と改め、そこには和歌山大学の附属中学校と附属小学校と、それから美術館(和歌山県立近代美術館)や博物館(和歌山県立博物館)が立ち並んでは、いるけれども......困ったことに、そこには有吉佐和子の文学碑や顕彰碑も立っている、という話は僕自身、聞いたことがなく、いったい何処が実際に、彼女の具体的な出生地であったのか、知らないままに今日まで来ているのが実情であったから、君が仮に有吉佐和子の出生地を知らなかったとしても、それは結果的に、君だけの責任ではない。

と言いながら、僕は目下、手許の「新潮日本文学アルバム」(71)に載っている、彼女の母の実家の写真を眺めている。が、その写真にも「取り壊し前の、母秋津の実家、木本家」と説明が添えられているので、このアルバム(album=白板)の刊行された、平成七年(1995年)から20年余りの時が経ち、きっと僕が現在、この木ノ本の地や、そこで彼女が小学校の三年生から四年生まで、わずか一年足らずの間を過ごした小学校を訪ねても、そこに彼女に纏(まつ)わる何らかの記憶を、僕自身が呼び起こすことを期待するのは無理な相談なのかも知れないね。でも、そこに彼女の小学生の頃の写真(「昭和15年ころ、和歌山・木本家の庭にて」)と、あわせて27歳の時分の写真(「昭和33年、和歌山市立木本小学校にて」)が掲げられているのは、とても僕を幸福にしてくれたのでもあった。

なぜなら、このようにして自分自身の、幼い面影を探し求めた後に、その年の暮れから執筆されるのが『紀ノ川』であり、おそらく彼女は度々、このようにして東京から、あるいは何と、子供の頃にはジャワ(現:インドネシア)のバタビア(現:ジャカルタ)から、くりかえし生まれ故郷の和歌山に戻り、その都度、自分自身の過去との再会を果たしていたに違いないからである。ちなみに、この「新潮日本文学アルバム」には、彼女が昭和二十年(1945年)の戦争の最末期から、翌年の終戦後の一時期を、疎開先として和歌山で過ごし、そこで当時の県立和歌山高等女学校(現:桐蔭高等学校)に転入した折の写真も載っていて、その仮校舎が我が家から、ごく近い場所(西浜)にあった、県立和歌山工業学校(現:和歌山工業高等学校)に置かれていた点も含めて、僕の親近感は増してくる。

さて、そのような自分自身の、過去との再会において、どうやら一番、有吉佐和子にとって「新鮮で魅力的であった」のは、意外にも明治時代に生まれた、祖母(ミヨノ)の存在であったらしい。――と、このように書き記しているのは、同じ「新潮日本文学アルバム」の中の、宮内淳子(みやうち・じゅんこ)の「評伝・有吉佐和子」であるけれども、それに従えば、このような「和歌山での祖母との暮らしのなかで、有吉は、母と祖母の葛藤、母と自分との葛藤、そして祖母と自分との間に生まれた交流を、不思議なものとして見つめた。昔ながらの〔、〕しきたりを守って生きた祖母に、母は強く反抗したが、自由意志を尊重する両親に育てられ、外国で成長した有吉にとっては、母より、祖母の存在の方が新鮮で魅力的であった。「隔世遺伝」という言葉が、彼女の心に浮かんでいた」。

と、ここまで話が来れば、このような「和歌山での祖母との暮らし」の中で、やがて産み出されるに至ったのが『紀ノ川』であることは、もはや力説するまでもない点であろうが、僕個人が興味深いのは、そのような「祖母と自分との間に生まれた交流」が、具体的に祖母の逝去の直前、この二人の間に営まれた、ある種の「読み聞かせ」を通じて、もたらされた点である。......「祖母は、昭和三十年の秋に脳溢血で倒れて、ほどなく亡くなっていた。中風の特徴で脳は冴え、しきりに話をしたがる。安静を保つため、有吉は祖母の愛読書「増鏡」を読み聞かせた。この静かな思い出は、心にまだはっきりと残っていた。祖母から母、そして自分へとつながるもの――三十代になるまで温めるつもりのテーマだったが、とにかく今の力を出しきって精一杯書こうと決心して筆を取った」(同上)。

振り返れば、このようにして有吉佐和子が『紀ノ川』を書き始めるのは、27歳から28歳へと、なろうとする時期のことである。もちろん、それは当時も今も変わらず、いわゆる「才女」の特権(privilege=個人的恩恵)であったに違いない。が、それを「才女」という語で一括りにして、そのことで君や僕が結果的に、このような「才女」とは無関係な、無関心な側に身を置くことが叶うのか、どうかは別問題であろう。なにしろ、そもそも君にしても僕にしても、一人の人間が20年以上も生きていれば、そこに「三十代になるまで温めるつもりのテーマ」は、かならず宿っており、そこから君や僕が目を逸(そ)らし、それを忘れ、眠らせてしまうのでない限り、そこに君や僕を「才女」や「才男」(?)と結び付ける、とても近しい、親しい人間関係は、すでに存在しているはずであるから。

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