ホームメッセージ有吉佐和子論 ――「教養」の来た道(226) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

有吉佐和子論 ――「教養」の来た道(226) 天野雅郎

有吉佐和子(ありよし・さわこ)の『紀ノ川』は、今を遡ること58年前の、昭和三十四年(1959年)に書かれている。そこで、ふと手許の『近代日本総合年表・第二版』(1984年、岩波書店)を繙(ひもと=紐解)くと、何と『紀ノ川』の記述は見つからず、この年表に有吉佐和子が登場するのは『助左衛門四代記』が最初で、これが昭和三十七年(1962年)であることに、僕はショックを受けている所である。なお、その後に彼女の記載があるのは、昭和四十一年(1966年)の『華岡青洲の妻』と、昭和四十七年(1972年)の『恍惚の人』のみであるから、どうやら世間的には、この三つが彼女の代表作であり、その活躍の時期も1960年代から1970年代までの間と考えるのが、ちょうど彼女の亡くなった年に刊行された、この『近代日本総合年表・第二版』の立場であり、判断のようである。

とは言っても、この年表の出版された時点(5月25日)においては、いまだ有吉佐和子は存命中であり、そこから例の、テレビ番組(『森田一義アワー・笑っていいとも!』)の「テレビジャック事件」(6月22日)が起き、そして彼女が自宅の寝室で謎の......と評しても構わない、突然の死(急性心不全?)を遂げているのが発見される時(8月30日)まで、この作家の生涯は続いている。享年53歳。振り返れば、有吉佐和子の小説が最初に活字になり、雑誌(『白痴群』)に掲載されたのは、昭和二十九年(1954年)の『落陽の賦』であり、それは彼女が23歳の折のことであったから、ちょうど三十年の間を小説家として、この、和歌山生まれの作家は過ごしたことになる。もっとも、彼女の最後の小説は厳密に言えば、昭和五十七年(1982年)の『開幕ベルは華やかに』であったけれども。

さて、そのような有吉佐和子の『紀ノ川』を、たまたま先日、ふとした弾(はず=勢)みで、僕は読み直すことになったのであるが、この小説を再読してみて、はじめて気が付いたのは、この小説(novel→ノヴェル)が単純に、とても面白い物語(romance→ロマンス)である、という点であった。裏を返せば、それまで僕が『紀ノ川』から受け取っていた印象は、いたって常識的で、通俗的なものであり、例えば、この小説を実際に読んでいなくても――読まずに分かるとか、粗筋(あらすじ)で読むとか、要は昨今、流行(はやり)の情報本並みのものであり、それは結果的に明治から大正へと、そして昭和へと、三代を通じて「紀ノ川」の辺(ほとり=畔)に生きた女たちの、いわゆる年代記(クロニクル)を書き記したものである、という域を出るものでは、まったくなかったのである。

ちなみに、このようにして「紀ノ川」と......さしあたり僕は一括して、この川の名を表記しているけれども、この川は昭和四十年(1965年)に施行された、現在の河川法に即して言うと、実は「紀の川」が正式名称であり、その意味において、そのまま「紀の川」と書こうか、それとも「紀ノ川」と書こうか、僕も少々、悩まないではないのであるが、ともかく、この川を実際に僕が目にすることになったのは、今を遡ること26年前の、平成三年(1991年)が最初であり、それは僕が生まれて初めて、和歌山の土を踏み、和歌山大学の教壇に立つことになった時と、ちょうど重なり合っている。と言うことは、それ以前に僕は、おそらく有吉佐和子の『紀ノ川』を読んでいたのであろうが、それは突き詰めるならば、まったく『紀ノ川』を読んではいなかった、と言うことにもならざるをえない。

と言うよりも、むしろ読めてはいなかった――と表現するべき事態が、そこには露呈しているのであって、このようにして小説を「読む」という行為には、ほとんどの場合、それ相応の時間と経験が必要であり、それを欠いてしまうと、きっと君や僕が幾ら、小説のページを捲(めく)っていても、それは一向に小説を読んでいることにはならない、という苛酷な現実が、君や僕を待ち構えて、立ち開(はだ)かっているに違いないのである。事実、僕が先日、このようにして『紀ノ川』を読み直し、そこで初めて、この小説の面白さを発見することが出来たのは、当然、僕が四半世紀(25年!)に亘る時間と経験を、この「和歌山」と呼ばれる場所で過ごし、培(つちか=土養)ってきたからであって、それは端的に、この発見(discover)という語の由来(=被覆除去)そのものでもあった。

ところで、僕は先日、これまた偶然、関川夏央(せきかわ・なつお)の『女流』(2006年、集英社)と題された、有吉佐和子の評伝(「有吉佐和子的人生」)を読んでいて、そこに当時、日本を代表する俳優であり、歌手でもあった、森繁久彌(もりしげ・ひさや)が有吉佐和子の没後、彼女に寄せた回想(「続・もう一度逢いたい」)を見出したのであるが、そこには何と、森繁久彌が「かつて『紀ノ川』を読みかけたことがあった」にも拘らず、それを「どうも訴えてくるものがないなァー」と感じて、これを「読みかけて中断した」ことが述べられており、けっこう興味を持った次第。なぜなら、この二人の偶然の出会いから、わずかに一年を経て、森繁久彌は今回の冒頭、名前を挙げておいた『恍惚の人』の映画化に当たり、その主人公(立花茂造)を演じることになったのであるから。

ともかく、このようにして小説を「読む」という行為は、森繁久彌のみならず、君にとっても、僕にとっても、はたはだ困難な行為であった訳である。なにしろ、おそらく君や僕が小説を「読む」という行為には、いつまで経っても、その到達点が訪れず、君や僕は繰り返し、繰り返し、小説を「読む」という行為と付き合い、これを反復し、反芻するしか、道はないからである。もちろん、それは単に小説に限られた話ではなく、随筆であっても、評論であっても、詩歌であっても、ことごとく事態は同様であり、それは突き詰めるならば、あらゆる「言葉」に該当し、あてはまる事態でもあったに違いない。......と、このように想い起こすと、君や僕が普段、あたかも「言葉」が理解可能であり、応答可能であるかのように考えている、その考え方自体が欺瞞的であることも、分かってくる。

その意味において、僕は例えば、白川静(しらかわ・しずか)が『字訓』(1987年、平凡社)の中で、この「読む」という日本語を説明し、そこに「読む」とは「数を数えることを原義とする。暦(こよみ)は「日(か)數(よ)み」の意。数えるようにして、神に祈り〔、〕唱え〔、〕申すことを詠(よ)むという。数えるにしても唱えるにしても、いずれも声に出していうことであった。「呼ぶ」とも関係のある語である」と、このように付け加えているのは、実に感動的(impressive=印象的)である。それと言うのも、このようにして君や僕は、それが小説であれ随筆であれ、はたまた、評論であれ詩歌であれ、すべては「言葉」に向けて、ひたすら声を出し、それを呼び続けているのであり、そうであるからこそ、君や僕は何度も、その「言葉」を読み直すことも叶うのであったから。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University