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映画『紀ノ川』鑑賞 ――「教養」の来た道(228) 天野雅郎

映画には、鑑賞という表現が似合う映画と、似合わない映画がある。もちろん、似合うのか似合わないのかは、映画それ自体の評価とは、まったくもって関係がないけれども、今回、僕が君に紹介したい『紀ノ川』は、いたって鑑賞という表現が似合う映画である。それと言うのも、この映画は上映時間が165分(すなわち、2時間45分)にも及ぶ、とても長~い映画であり、どうやら公開当時(昭和四十一年→1966年)は映画館で、前半(花の巻)と後半(文緒の巻)の間に休憩時間が挟まるほどの、まさしく大作であった模様。と言ったのは、残念ながら僕自身は、この映画を公開当時、映画館で観た訳ではなく、実は暫く前に、はじめてDVDの映像を通じて、この映画を公開後、半世紀(50年!)以上の時間が経ってから、何とも遅れ馳せに、ようやく鑑賞することが叶ったのであるから。

もっとも、それでは有吉佐和子(ありよし・さわこ)の原作の『紀ノ川』が、映像化された場面を、これまで僕自身は観たことがなかったのか......と言えば、そうではなく、うっすらとではあるが、この映画に先立って制作された、テレビ・ドラマの『紀ノ川』の方は、主演の南田洋子(みなみだ・ようこ)の顔と共に覚えている。ちなみに、この作品で南田洋子は「日本放送作家協会賞」の女性演技賞を受賞しているが、僕自身は彼女が、やがて夫の長門裕之(ながと・ひろゆき)と長い間、テレビの音楽番組(『シオノギ・ミュージックフェア』)の司会をしていた頃や、さらに後年、大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)の監督した『理由』(平成十六年→2004年)の中で、たまたま僕の郷里(島根県松江市)出身の女性(石田キヌ江)を演じていたことを、今、想い起こしている所である。

閑話休題。さて、映画の『紀ノ川』の方は一度、平成四年(1992年)にビデオ(VHS)になったこともあったのであるが、その折に僕自身は、それほど有吉佐和子に興味を持っていた訳でもなく、この映画を観る気も、ほとんど起きなかったこともあり、それから更に14年後(平成十八年→2006年)にDVDとなった『紀ノ川』を、こうして10年余りの歳月を隔てて、僕は先日、はじめて鑑賞した次第。でも、その面白さに釣られて、この長~い映画を僕は立て続けに二度、見直したほどであった。――なにしろ、この映画には主人公の花役の、司葉子(つかさ・ようこ)を始めとして、数々の名優が顔を揃えているけれども、それと並んで僕には当時の和歌山の、例えば和歌山城や旧県議会議事堂や、そして何よりも、その時分の「紀ノ川」自体が、そこに映し出されているのが魅力的であった。

なぜなら、この映画は原作と同様、このDVDの宣伝文(キャッチ・コピー)が伝えてくれているように、そこに「明治三十二年から昭和二十一年〔、〕終戦の翌年まで〔、〕激しく揺れ動いた世の中で誠実に生き抜いた親子三代の女性たち」が捉えられており、これを「名匠〔、〕中村登監督が渾身の力を込めて描いた文芸巨篇」であることに、間違いはないのであるが、それにも拘らず、この映画自体の、ひいては原作の、最大の主人公が存在するとすれば、それは決して男主人公(ヒーロー)ではなく、あくまで女主人公(ヒロイン)としての「紀ノ川」であり――そうであるからこそ、上記の宣伝文も続けて、これを「滔々(とうとう)と流れる母系の大河〔、〕明治・大正・昭和と〔、〕母と娘の五十年の歳月を見つめつづけた紀ノ川」と、このように書き綴ることが出来たのであった。

ところで、この映画のメガフォン(megaphone=拡声器)を取ったのは、先刻、ご登場を願ったばかりの、中村登(なかむら・のぼる)である。......とは言っても、この監督の名を君が、かろうじて知っている可能性を期待することさえ、まず困難であろうし、僕自身が当時の松竹映画で、一連の「文芸巨篇」と称される作品を、あれやこれやと振り返った時に、そう言えば、川端康成(かわばた・やすなり)の『古都』(昭和三十八年→1963年)も、高村光太郎(たかむら・こうたろう)の『智恵子抄』(昭和四十二年→1967年)も、どちらも中村登が監督であったのかと、やっと想い起こすことの叶う程度であるから、この監督が1950年代から1960年代に掛けて、それこそ毎年、何本かの文芸巨篇を撮り続けていた事実を、むしろ君と一緒に、この場で再確認する必要に迫られている所である。

なお、そのような一連の文芸巨篇の中で、中村登が有吉佐和子の原作を映画化しているのは、この『紀ノ川』と並んで『三婆』(さんばば)があり、こちらは原作が昭和三十六年(1961年)に書かれた後、それが映画化(制作→東京映画、配給→東宝)されるのは昭和四十九年(1974年)になってからのことである。言い換えれば、有吉佐和子の原作の映画化としては、けっこう時間を要したことになるのであるが、この『三婆』の方は結果的に――と言うよりも、むしろ必然的に、この当時の世相を反映した人気シリーズとなっていったのであって、この同年にはテレビ・ドラマも作られ、それ以降、1970年代から1990年代に至るまで、何度も映像化されているし、これに舞台を加えれば、実は現在でも、いろいろとキャストを変えて上演が続けられている、かなりの人気芝居なのでもあった。

おそらく、有吉佐和子が世間で「才女」と持(も)て囃(はや=栄)された理由の最たるものには、このように機敏な、機を見るに敏な所が、あったのであろうが、言うまでもなく、それは「戦前までの女性作家」が、例えば「林芙美子〔はやし・ふみこ〕や平林たい子などに代表されるように、さまざまな人生遍歴を持ち、それを描いて名を成すというイメージが強かった」のとは......決定的に異なる、違った作家の風貌が、そこには顕在化していた訳である。すなわち、そのような「人生遍歴」を経ず、おまけに「女子大〔=東京女子大学短期大学部〕を出たばかりの若さで、苦労知らずの育ち方をしている」――そのような世間知らずの、あまっちょろい「人生経験の乏しいものが「才」で書く、という揶揄の意味」が、まさしく「才女」であることの裏返しには、隠されていたのである。

 と、このように述べているのは、ふたたび「新潮日本文学アルバム」(71)の中の「評伝・有吉佐和子」(宮内淳子)であったけれども、それを当時の文学的土壌に置いて見れば、なおさら有吉佐和子が浮き立った、孤立無援の状態に追い込まれたことは明らかである。また、それは再度、関川夏央(せきかわ・なつお)の『女流』に従えば、彼女が「近代文学的第一人称をになうことが、おそらく生理としてできなかった。つまり「私の内面」をえがけず、えがこうともしなかかった」作家であったことにも繋がり合っている。ただし、そのようして「自分をえがけないし、えがかない」ことが逆に、彼女が「天性の語り手、天才的物語作家」であることの証拠であることを、つい先日、映画の『紀ノ川』を鑑賞していて、僕は確信したのでもあった。その、清々しいまでの「才女」ぶりと共に。

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